西郷イト婦人の気概

  「宿んし(うちの主人)はこげんなお人じゃなかったこてえ」。明治三十年、東京は上野公園にある西郷隆盛像の除幕式で、未亡人のイトさんがつぶやいた言い分である。
 ものの本によると、西郷は写真ぎらいだったらしく、ほんとうの姿を写したものはない。眉毛の太い角ばった顔付きの、あのおなじみの肖像は、西郷の弟の従道と従兄弟にあたる大山巌をたして、描かれたものだそうである。
 それにしてもイト女とは、明治にして公の場に臨みながら、なんと歯に衣着せぬナウい女性だろう。私は、彼女のこんな気概に惹かれていくのを、抑えられなくなった。
 イト女は一八四三年、薩摩藩士・岩山八郎太の次女として生まれた。二十二歳のとき西郷と結婚、当時としては晩婚型だ。西郷のほうは脂がのる三十八歳。薩摩藩の下級書記官から幾多の試練をのりこえて、倒幕運動のリーダーとなり、薩長同盟をとりむすぶという意気揚々としたところである。
 西郷には若き日、奄美大島に流されたときにできた島妻、愛加那(あいかな)がいた。イト女は西郷の正妻とはいえ二度目の妻である。男性優位の社会にあって、女が涙を呑むのは当然の風潮だったのだろうか。しかし彼女は気丈にも、寅太郎、午次郎、酉三の三人のむすこを儲けている。よくぞと褒めたたえたい。
 当然の風潮に輪をかけたような現実は、新婚三年目にして、つまり一八六八年(明治一年)愛加那の子・菊次郎をひきとって育てていることだ。
 あの平清盛の正室・時子が清盛と側室・常盤との間に生まれた能子を、育てることに共通する。7百年も昔の平安朝における正妻の意地みたいなものが、幕末から明治に変わろうとする近代に、なおも生きる理不尽さのようなものをかみしめてしまう。
 おまけに西郷家には、隆盛の弟やその家族なども同居するという大家族であった。
 なにはともあれイト女はひたすら耐えしのび、中央で活躍する西郷の後顧(こうこ)の憂いなきよう、留守家族をよく守っている。良妻賢母をムネとする典型的な明治の女ではあった。
 その内助が功を奏したにちがいない。
 六八年正月、鳥羽伏見の戦いがはじまる。薩長連合の参謀として新政府軍をひきいる西郷は、幕府軍を一方的に敗走させた。彼が最良の男の花道となったのは、なんといっても同年四月、幕府方勝海舟との会談で、江戸城を無血開城へとみちびいたことであろう。
 やがて明治維新。彼は参議となり今でいう内閣総理大臣にまでのぼりつめる。イト女二十八歳にして夫を最高の政治家にのしあげた。まさに閣僚のトップレディである。
 このあと西郷は外交策をめぐる政府要人との対立から、官職をおり鹿児島に引退した。彼を思慕する反政府派の鹿児島士族にかつぎだされて西南戦争を起こすが、結局城山で自刃。七十七年(明治十)享年五十歳である。
 ここで私は浅虜(せんりょ)とのそしりをうけるかもしれないが、司馬遼太郎の『殉死』を思う。明治天皇に殉死した乃木希典の静子夫人と、西郷イト夫人の生き方をくらべてみる。両女子はともに薩摩藩士の娘、その夫たちの肩書も、外戦内戦のちがいこそあれ同じ陸軍大将だ。
 乃木は明治帝の信任厚く、いかに傾倒し、いかに帝のために「死ぬこと」を美化していたかは、納得できる。しかし静子夫人まで、なぜ夫とともに自害してしまったのだろうか。≪明治も末期、夫に殉じた古風な<妻>がいる。かと思えば、明治の初期、主人の自刃にもめげず立派に自立している<女>がいた≫
 イト女は西南戦争後、西別府の山中にひっそりといきのびた。一九二二年(大正十一)数え年八十歳の天寿をまっとうしている。
 彼女は草葉の陰で、自刃して果てた最愛の夫・隆盛をしのび、さぞかしつぶやいているに違いなかろう。「宿んし(うちの主人)はこげんなお人じゃなかったこてえ」と……。

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蘇我の娘たちの悲哀

  奈良明日香村の甘樫丘(あまかしのおか)の麓に、蘇我入鹿(そがのいるか)邸の可能性が高い遺構がみつかったと、朝日新聞(二〇〇五、十一月十四日付)に載っていた。
 多くの考古学者や歴史ファンを興奮させたとある。日本書紀の大化の改新を裏付ける、有力な「物証」になるかもしれないからだ。
 蘇我氏といえば、古代飛鳥の大化改新(六四五)のクーデター「乙己の変(いつしのへん)」で滅亡してしまった権力者である。
 私は高校のとき日本史で、この時代のことを学んでいた筈なのに、殆ど忘れてしまっている。さっそく歴史書や辞典類と首っぴきで、蘇我家のルーツを訪ねることになった。その中で蘇我の娘たちの浮沈が、なぜか哀しいものに思えてくるのだった。
 蘇我氏の興亡は、稲目(いなめ)、馬子、蝦夷(えみし)、入鹿、の四代にわたる。入鹿のひいじじにあたる稲目は、元・大和国高市郡曾我を本拠とする豪族である。二十八代宣化天皇時代(在位五三五~五三九)は、大臣になるほどの才物でもあった。驚くべきことは、娘の堅塩媛(きたしひめ)と小姉君(おあねのきみ)を同じ欽明天皇に嫁がせるという、人道にはずれたアコギなやり方で天皇家と外戚関係を結んでいる。
 堅塩媛は用明、推古の二天皇を、また小姉君には崇峻天皇を授かった。天皇の母となりえた二人は、まだ幸せといえようか。「親の七光」でむすこの馬子、まごの蝦夷は、ストレートに大臣の出世コースを歩んでいる。
 こうして稲目は、ひまごの入鹿が暗殺されるまでの、百年余りにわたる蘇我家の、ゆるぎなき繁栄のいしずえを築いたことになる。
 さて二代目馬子には、蝦夷のほかに刀自古郎女(とじこのいらつめ)、法提郎女(ほほていのいらつめ)という娘がいた。この娘たちこそ先の叔母君の堅塩媛、小姉君にくらべて、なんと悲運であったことだろうと思えてならない。
 カネと力で朝廷を牛耳り、ときの政治もほしいままの蘇我大臣家で、蝶よ花よと育てられた、いわばイトさんコイさんたち。美しく着飾ってお稽古ごと三昧。年頃ともなると「娘一人に婿八人」の筈なのに……。こともあろうに旧弊な叔母君と同じ道をえらんで、天皇家と縁組している。親の権力、命令にぜったい服従あるのみだったのだろうか。「いくら天皇の親戚筋とはいえ、あの太子って、タイプ(女好き)じゃないわ」「あんなオジン臭い天皇なんて、いやよ」と、自己主張できない女の哀しさ。仮に姉は官人の御曹司を選んだとしよう。妹は、幼なじみで気心の知れた豪農の伜(せがれ)であってもよかったのに。
 刀自古郎女がえらんだお相手は、推古天皇(女帝)の摂政のほまれが高い、聖徳太子である。内外の学問に通じ、深く仏教に帰依し、十七条憲法を作るなど、政治家としては超手腕家だ。が、うわさによれば、太子は女には興味がなく、刀自古郎女にも冷たかったらしい。やっと恵まれたむすこ山背大兄王は、皇位争いで身内の入鹿に殺されている。
 一方、法提郎女は、即位二年目の舒明天皇(三十七歳)の妃となる。もともと舒明には、一つ年下でしっかり者の皇后(のちの皇極天皇)がはべこっていた。さらに中大兄皇子、大海皇子まで儲けている。のちのち彼らは天智天皇、天武天皇となり、堂々と天皇継承者になって花を咲かせた。法提郎女にせっかく授かった古人大兄皇子は、祖父・馬子の願望もむなしく天皇継承は果たされずじまいだ。
 蝦夷と入鹿は、甘樫丘の麓に家を並べて建てた。それぞれを上の宮門(かみのみやかど)、谷の宮門(はざまのみかど)といい子女を王子と呼ばせた。さらに二人の墓を陵(皇室の墓)と称してはばからない傲慢さ。「天皇の地位を脅かそうとしている」として、入鹿はついに中大兄皇子とその一派に殺害された。もはやわが蘇我家もこれまでと、蝦夷は自邸と入鹿邸に火を放って自刃する。
 こうした蘇我家の滅亡とともに、刀自古郎女、法提郎女、の娘たちも、いつしか露と消えてしまっていた。哀れでならない。

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安井道頓に会いたくて

  盂蘭盆(うらぼん)の日。ご先祖の墓参りに行こうという夫に顰蹙(ひんしゅく)を買いながら、私は道頓堀へ行くといって別々の電車に乗った。ふと安井道頓に会いたくなった。きょうなら精霊仲間と彼の世から帰っていて会える気がしたからだ。
 戎橋に着くとおりしも架替工事中であった。すぐの横にある仮橋は、押すな押すなの人出。川の両岸辺にはテラスのような遊歩道が、上手の太左衛門橋へのびている。そぞろ歩きする日傘や帽子姿。ピーチパラソルの影でジベタリアンをきめこむ若者ら。繁華街の水辺空間は、暑気にうだる人々を開放感に浸らせている。こんな光景に目を細めて満足げな道頓の顔が、川面にゆらいでみえる。
 安井道頓は河内久宝寺の豪族である。
 父・定正とともに豊臣秀吉につかえ、大阪城造営に尽力して、その褒美に城南の地を賜ったという。
 もともとこの地に梅津川が流れていた。
 川とは名ばかりの小流で、大雨でも降ればたちどころに溢れ、ぐるりの野原は水浸し。そこで一念発起した道頓。湿地帯の水捌けをよくし、水運を図り、城下町に反映させてやろうと……。いとこの安井九兵衛(道卜(どうぼく))、親類の平野藤次をはじめ久宝寺の農民をよびよせた。私財を投げうった。梅津川を拡張し、東横堀川から木津川にいたる河川開削工事に着手した。慶長十七(一六一二)年である。
 ところが工事半ばにして大坂の陣がはじまり、道頓はあえなく戦死。のち九兵衛らが道頓の遺志をついで工事をつづけ、元和元年(一六一五)年に完成した。のち徳川の世で大坂城主となった松平忠明は、道頓をあわれみその名をとって道頓堀と名付けた。
 道頓堀川の通説である。私は子供のころに教わったが、いったん脳裏に焼きついたものは容易に離れようとしない。
 それにして昔の人はえらいと思う。堀を開削するにはそれだけの富もいるが、技術も必要だろう。安井一族はカネだけではなくワザも合わせもつ豪族中の豪族だったのだ。
 そんな道頓の地位逆転・失墜のときがやってきたのは、昭和四十年代はじめであった。
 子孫である安井さんが大阪市を相手にして、道頓堀の所有権を主張して訴えをおこされた。『道頓堀裁判』(牧英正著)がそれである。
 裁判がきっかけで、あるお偉い学者先生の主張がいっきに浮上した。かねてより道頓は成安(なりやす)道頓のほうであると、安井説は否定されていたらしい。
 成安氏は平野の七名家の一つである。今も残る系図や古文書に、はっきりと道頓堀の開削に携わったことが明記されているという。
 裁判は十一年余りの歳月をかけて昭和五十一年十月、安井さんが敗訴した。以来、成安説は、学者や知識人はもちろん普通の大阪人にも、浸透しつつあると知る。
 大体、江戸から三百六十年余も経ってから、あれは「間違ってました」「人違いでした」といわれても、簡単に改められるだろうか。
 いつものコースである千日前の三津寺墓地(松林庵)へと、私の足は向いていた。
 庵を入って正面奥に、二メートルほどの五輪塔「贈従五位、安井道頓居士・安井道卜居士」が、十年一日のごとく建っている。ユリの花、缶入りのお酒とお茶が供えられている。「贈従五位」の文字は後年の加筆だとか、ほんとうは四代九兵衛のために建てられたものであるとか、不思議さはあるものの、大方は道頓の墓と信じてきた。
 私は道頓堀川にもどり、日本橋北詰の東角にやってくる。安井道卜の元屋敷跡である。背高い石碑が建っている。前面に「贈従五位安井道頓安井道卜紀功碑」。背面には二人の功績をたたえているという、難しい漢文の碑文。大正十四年近くの町々や隣組有志の浄財で作られたものだ。
 墓にせよこの紀功碑にせよ、成安説が浸透しつつある現代、訂正、撤去もなく残るのは、通説を捨て切れないあらわれではなかろうか。と、凡人の私はついつい思ってしまう。
 にっぽんばしから燈籠流しで道頓を見送ることにしよう。私の中の燈籠は、右にゆれ、左にゆれて、ゆらゆらと。ともすれば川波に呑まれそうになりながら木津川へ、さらには大阪湾の荒波に揉まれるだろう。決して灯火を消すことがないようにと祈った。

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住友と銅精錬所

 最近、大阪は島之内にある、江戸期最大の住友長堀銅吹所跡をみてきた。これは、寛永年間から明治九年まで操業したというから、まさに、江戸の真っ只中を稼動していたことになる。興味をひかれたのは、遺跡そのものよりも、大阪市中、それも東横堀川と道頓堀川に囲まれた一等地に、銅精錬所がどうして出来たのか。また、二百四十年近くも、よく続いたものだなあと、いう思いである。
 それというのは、ここで私の第二の故郷、新居浜市の事情を引き合いに出したい。新居浜は、住友系の企業が軒を並べる、愛媛県東部  随一の工業都市。なかでも、別子は規模の大きい銅山として知られてきた。
 地元での活況ぶりは大変なものだった。昭和二十五、六年頃、高校生だった私は、よく目を見張ったものである。朝の出勤時間帯になると、汽車は人で鈴なりだし、県道は自転車のラッシュアワーとなる。ともすれば、車のほうが遠慮ぎみに走っていたりする。こうして、周辺の町や山奥の村々から住友に通っていく、あのパワーにあふれた光景。この人たちは「住友さん」と呼ばれ、信望が厚く、商人からは文句なしにツケがきいた。
 さて、この新居浜市の惣(そう)開(びらき)という町に、明治十六年、精錬所が作られている。別子の山で掘られた原石は、トロッコにひかれておりてきて、街中にある惣開で精錬される。ベルトコンベア式省エネ作業態勢ではある。幕府が倒れて大坂の銅吹所が閉鎖され、別子銅山の近くへ移転し操業再開したわけである。
 惣開町やその周辺には、もちろん、「住友さん」が多かった。だが、その設置に反対するべくもなかったのだろう。やがて、精錬につきものの鉱毒水や亜硫酸ガスの猛毒に悩まされるようになり、騒ぎだした。住友のおひざ元で、住友さんがのろしを上げるという、当時としてはかなり画期的なことがおきたわけで、いわゆる公害運動の先駆といわれている。結局、十年余で惣開を閉鎖、四阪島(しさかじま)に移転している。
四阪島は、新居浜から北西十八キロの瀬戸内海に浮かぶ離島だ。住友は小さな島四つを丸ごと買収。岩山を削って工場と従業員住宅を建て、海底ケーブルで電力を、水道船で水をはこぶなどして操業をはじめた。しかし、潮風にのって煙害はますますひどくなり、東予四郡にひろがった。住友は毎年賠償金を払いつづけ、昭和のはじめに、新しい精錬法を取り入れて煙害はなくなっている。
 ここで大阪の銅吹所の話に戻ろう。徳川は大坂夏の陣で秀吉方を完封したのち、急速に町の整備にかかり、碁盤の目のように堀川を開削している。堀川の近くに精錬所を集め、質のいい胴を作らせた。舟運によって原石を運びこみ、精錬されたものを長崎へ運びだす。ついで、長崎出島のオランダ商館から、ひそかにヨーロッパへ輸出するといった具合に、大坂は立地条件が整っていたのだ。当時、銅は幕府の大きな財源であったという。
 ところで江戸初期の大坂は、葦の生える低湿地帯。堀川ができるにつれ、真っ先に生まれたのが船場や島之内の町である。ここに精錬所が、十数軒も占拠していたのだから、当時にしてできたこと。大阪が水の都、煙の都と呼ばれた所以が、この辺にもありそうだ。
 また、精錬所の職人は、かなりの高給であったという。興味深いことに、この職人たちが、米価高騰を理由に賃金の三割値上げを要求して、ストライキをしている。「仕事を滞らせるとはけしからん」。幕府直轄の管理所、銅座から一喝され、要求は通らなかったという。こうして二百四十年も精錬をつづけているのだから、幕府の統制の厳しさと、お上(かみ)には絶対服従という大坂町民の柔順さ、悲哀さが伺いしれるのである。
 時が流れて、別子銅山は昭和四十八年三月閉山、四阪島も同五十一年十二月に精錬をやめている。江戸期からの大役を果たし、静かな自然に返った別子には、今、故郷の人々が紅葉をもとめてつめかけ、ハイカーを慰めていると聞く。

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借金棒引き

 十一月の初旬、エッセー教室の先輩のみなさんに連れられて、奈良市の東北部に広がる「柳生の里」を散策した。柳生新陰流の柳生十兵衛など一族郎党は、徳川家康をはじめ約三百年の江戸幕府に、兵法師範役として仕えている。
 その柳生藩の名所、史跡が色濃く点在する里で、珍しいものに出合った。中央部の山脇というバス停から今川を渡り、ほどなく旧柳生街道を入ったところに、ほうそう地蔵というのがある。鎌倉時代に作られた、天然痘よけを祈願する高さ三メートルほどの石仏である。
 その石仏の右下に、黒ずんだ片仮名の文字が刻まれている。腰をかがめて目をこらしてみた。あたりを覆う大樹か風化のせいか、読み取りにくいが、これが「徳政一揆」の銘文という。
 調べてみると、現代語になおして「正長元年(一四二八)より先は神戸四ヶ郷(かんべしかごう)に負債あるべからず」とある。
 江戸時代から、さらに百七十五年前の正長元年、近江坂本の交通業者である馬借(ばしゃく)が、徳政(借金棒引き)を幕府に要求して立ち上がり、山城、大和の農民も加わって、「正長の土一揆(しょうちょうのつちいっき)」を起した。「徳政一揆」ともいわれる。
 租税や年貢を免除したり、債権債務の破棄を、徳政という。ひらたくいうと「貸した者は損、借りた者は借り得」ということである。
 神戸四ヶ郷というのは、柳生の大半である大柳生、坂原、小柳生、邑地(ほうじ)の四地区を指す。この地区は、大昔から春日神社に属し、神社に奉仕してきた神領域であるといわれる。正長元年より先は、この神領域での年貢をゆるくし、借金も棒引きするという意味らしい。
「正長の土一揆」でかかげた徳政の改正令が勝利だったのを祝って、この土地の誰かが、この石仏の右下に、このように落書きした。徳政一揆のたしかな証拠としては、全国的に唯一のもので、ほうそう地蔵とともに、重要文化財に指定されている。
 農民が集団で、酒屋、倉庫を襲って品物を奪い、借金棒引きを幕府に求めて、武装行動をとることは、正常な手段とはいえない。しかし、農民がいかに苦しく、貧しく、深刻であったかということだろう。また、足利義政などは自らの贅沢がたたり、財政立て直しのために、一代で十三回も徳政令を発して、人民を逆に苦しめた。呆れはてた将軍である。
 一揆の頻発した室町時代から、五百年以上たったいま、私は不遜なことに思いをめぐらせてみた。ここで徳政令がでたらどうなるか。
 ふと、フランス文学のモンテ・クリスト伯(巌窟王)を思い出す。無実の罪で牢獄生活を送り、のち復讐のために、主人公の青年を大金持ちの伯爵に仕立てあげた。証券取引所を痛快にあやつって、欲しいがままに大金を使わせた、作者、アレクサンドル・デュマなら、壮絶な想像ができるだろう。
 平凡な主婦の私は、せいぜいこんなところか。銀行から借金して買った地上げ屋は、返さなくてもいいから大儲け。すべての貸し金が回収不能になると、銀行は大慌てする。不安感を抱いた預金者が殺到して、引き出しにかかる。たちどころに銀行はパンクする。
 会社、商店が仕入れる原材料、商品の買掛金は借り得。しかし、得意先に売った売掛金は貸し損。競馬、マージャンといったギャンブル代を、給料の前借りした者は、奥さんにばれずに帳消しになる。賃貸ビルや住宅の悪質な家賃滞納者は、ゴテ得をする…等々。
 卑近なところで、我が家のローンの残り十五年分、テレビの月賦、酒屋の大きなツケが助かる。店の回転資金の一部に貸した、知人への貸し金はボツ……等々。世の中は大混乱し、昔の物々交換の時代にかえらねばなるまい。
 農民たちの血みどろな闘いの中で、守られてきた田畑は、今も生き続けている。稲の刈り入れがすみ、切り株の残った田圃、真新しい造りの農家、こんな柳生の里が印象深い。

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