卵の透かし売り

 二〇〇七年一月上旬から下旬にかけてマスコミに、宮崎と岡山の鳥インフルエンザ禍が相次いで伝えられた。いずれも中国ルートの渡り鳥が元凶らしい。二万数千羽もの鶏が、殺処分の難に遭っている。業者の損失は元よりだが、何だかとても、鶏がかわいそうでならない。どうせ食肉用の宿命にあるとはいえ、毒性の強い高病原性ウイルス(H5N1型)で「狂い死」というのは無残である。
 ところで鶏といえば卵。卵といえば半世紀も昔になるが、私の新婚生活を思い出す。
 昭和三十年代はじめ薄給サラリーマンの夫の許に嫁いだ私は、大阪市東淀川区の裏町に住んでいた。買物は、今のようにスーパー(冷たいイメージの)は少なく、公設市場とそれにつながる商店街で済ませるのが主流であった。
 あの頃の商店街は人情が厚く、買い物籠を下げた奥さんたちで賑わっていた。切れたゲタの鼻緒をすげ替えて貰える履物屋。てんぷら油を計り売りする酒屋。手のひらにのせた豆腐を幅広の平べったい包丁で切ってみせ、半丁でも売る豆腐屋。そして、米屋では恥ずかしげもなく一升(約一.八ℓ)買いをよくしていた。
 そんなとある一軒に、「卵の透かし売り」をするおじさんの店があった。大小により分けた卵の台の上に盛り上げられ、客の注文に応じて何個でも売ってくれる。
 腰は曲がっているが、いかにも好々爺らしいおじいさん。一個一個手品師よろしく、両手の指先でクルクルまわしながら裸電球に透かし、中身を点検して売るおじいさんの姿が、モノクロ写真のようによみがえる。
 当時、わが家に電気冷蔵庫などあろう筈がない。中古の氷冷蔵庫があるにはあったが、冷蔵能力は長持ちしない。そこで要るだけをバラ売りする、おじいさんの店はとても重宝だった。
 夫は卵料理が好きだから、私は毎日のように買いに行く。給料をいただいた当座は五個、月末で手元不如意になると二個といった具合に……。しかし、おじいさんはいやな顔ひとつしない。寡黙さを補ってなお余り有るほどの、笑顔を絶やさぬ老人だった。
 私どもは十数年でこの町を離れ、他区へ引っ越した。おじいさんの消息は分からないままになった。と同時に、それ以来、「卵の透かし売り」を見かけなくなったが、パック入り卵は大丈夫なの?という素朴な疑問を持ちつづけてきた。
 今年の二月初旬のこと。農協に勤める知人が、出張がえりにひょっこりわが家へ立ち寄ってくれた。私は好機到来とばかり、さっそく彼に訊ねてみたら、今でも「卵の透かし」はやっているという。
 卵の作業手順は、まず洗浄。つぎに大中小の選別。さらに暗くした倉庫で(写真現像をする暗室のような)一個ずつを電球に透かして中身点検。そしてパック詰め、紙箱詰め、発送等などすべて産地業者に委ねられているそうだ。
 オートメ化した設備で処理され、衛生的で新鮮な卵の供給をうけてきたことに、ひとまずは安心した。
 この話を聞くうちに、私は「ハッ」と、気がついた。あのおじいさんの店の片隅には、直方体の木箱がいくつも積み上げられ、卵を保護するモミガラが、その辺に散らかっていたなぁと。卵に親鳥のフンがこびりついていたが、それほど不潔には思わなかったなぁとも……。
 こんなご時勢だからこそ余計になつかしいのだろうか。「卵の透かし売り」をするおじいさんの姿は、古き時代の良き風物詩だ。私の脳裏から離れようとしない。

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お洒落 and 恋心

 ミッチーこと倉田美智子さんは、私の友人だが、年の頃は四十半ば。長身で、ふさふさした髪の毛が、いつも背中に揺れている、とっても、お洒落好きな才女である。
 ミッチーと知り合ったのは、今から一年半前。私が社会福祉主事の勉強で、共に机を並べたときからで、いわば、志を同じくする仲間だった。あの頃から感じていたのだが、ミッチーは不思議なくらいサービス精神の旺盛な人だった。喜んで貰えるのがうれしいと、誰よりも早目に来て、気の合う仲間に、熱いお茶をお菓子付きでふるまったりした。そんな心遣いは枚挙にいとまがない。
 また、一年間の課程の終わって終了式という日、ミッチーが仲間にサイン帳をまわし、生年月日も是非にと頼み歩く姿を見て、正直なところ、少女趣味だなァと思っていた。ところが彼女、それ以来、仲間の誕生日がくると、電話でお祝いのメッセージを送っているという。この勇気ある行動に、仲間は「生」の喜びを倍加させているに違いない。と、まあ、こんな風に、今どき珍しく洒落たことをやってのける女史なのである。
 ところで十月初旬のある夜、わが家の電話が鳴って、突然「あんちゃん(私のこと)、おめでとう。もじきお誕生日ね」とミッチーの明るい声がとびこんだ。年甲斐もなく、胸に熱いモノが込み上げてくる。やっぱりうれしいものだ。紛れもなく十月二十五日は、私の五十九歳の誕生日。「明日、ちょっと早目のお祝いに、近鉄劇場へ誘いたいのよ。でも気を遣わないで。入場券は頂いたものだから」。映画・芝居好きの私と知っての、心にくいばかりの配慮に、私は有頂天だった。
 上六の近鉄劇場は開幕を前にして満席だった。でも「二扉I列 三十四と三十五番」だけは、ぽっかり二人を待っていた。芝居は、東宝現代劇十月特別公演と銘打つ、佐藤愛子原作『夕やけ小やけで、まだ日は暮れぬ』だった。
 実業家の夫に先立たれた松子(京マチ子)が、家族のわずらわしさを避けて、芦屋の家から白浜の別荘へやってくる。そこへ女学校時代の親友玉枝が、恩師松丸先生を連れて現れる。先生は六十九歳で未婚。結局、松子は先生と同居するはめになる。玉枝は夫・子供・孫まであるといった想定。こうした三人三様の熟年女が、いかに生きるかの問いかけの物語である。
 先生が痛快であった。口紅はオレンジ色、髪はまっ黒に染め、鮮やかな色模様の洋服をまとうといった派手好み。その上老いらくの恋に執念を燃やしている。明るくて、花にたろえれば、芍薬か牡丹。男性に憧憬と魅惑の念を掻き立てる。松子は、遺産相続だ生前贈与だのと騒ぎ立てる子供や孫よりも、この恩師と別荘での暮らしを選ぶ。
 熟年女のほんとの幸せは何だろうか。気の合った者同士、暮らすのもよいではないか。お洒落をすべし。恋もまたいい。先生の恋の行方は哀歓に、充ちているが、見ていても楽しくてしかたがない。私たち女性のもつ潜在的願望が、体現されているからだろう。
 また、三人の女性がそれぞれに美しい。京マチ子をはじめとする、女優本来の美貌や照明効果を差し引いたとしても、その思いはまだ強い。何故だろう。やはり、ドラマは強調されるセリフの洒落っ気が、観客に美しく感じさせていると思えるのである。
 お洒落なミッチーからお洒落な贈り物を頂いたものだ。私も、さりげなくお洒落なお返しを考えなくては。ドラマに滲み出る『お洒落』(私のは、せいぜい、髪をなでつけ口紅を忘れない程度かもね。洒落っ気のあるライフスタイル。内面的なお洒落。いいエッセーを書きたい。etc.)と『恋心』(誰かが言ってた。恋は自由だと……)を持ちたいものである。
 図らずも再認識した『お洒落and恋心』に、わくわくしている私めである。

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夕焼け空の交通ラッシュ

銀翼を輝かせてジェット機が
夕焼け空を飛んでいく。
わたしの住む新淀川のほとりの
高層マンションすれすれを
対岸の十三の町の上を
南東から北西へ
いつもきまって同じ方向
飛行機の行き着くところは伊丹の空港。
着陸態勢に入った機体は
寸分たがわず
落ち着きはらって堂々と
みるみる高度を下げて飛んでいく。

追っかけるように又一機
こんどは一回りでっかいジャル・パック。
ゴオー、ゴオー、と四つのエンジン音を
夕空いっぱいに轟かせながら悠然と
空港のある北摂の山懐へと飛んでいく。

ジャル・パックのさらに上空を
木の葉が泳ぐように又一機が飛んでくる。
ローカル線のYS11型機
二十年前の新型機が
ひらひら、ひらひら、と危なっかしく
それでもジェット機に
負けじとばかりに飛んでいく。

申し合わせたように四台目五台目と
空はひばりや鳩やすずめも飛び交って
交通ラッシュ。
夕陽は西の空に消えたけど
その余韻を残した夜空に
線香花火のような
赤、黄、青の灯を靡(なび)かせて
帰宅の遅れた幼子のように
われもわれもと門限へ向けて
山懐へと駆け込んでいく。
バブルも倒産も我関せずと
さもこの国が繁栄を象徴するように。

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生きた鰯の目

 家族ぐるみで大阪から疎開した私は、愛媛県新居浜郡にある半農半漁の村の国民学校へ二度目の転校をしていた。あれは二学期が始まってまもなくの授業中であった。
「……あんずさんの目を見てみんかい、生きた鰯の目のように輝いとーる。みんなのはどうぞね、死んだ鰯の目のようぞな……」
 六年梅組担任の佐々木冨久先生が、突然、こう言われたので、級友たちは一斉に騒ぎだした。引き合いに出された私は青天(せいてん)の霹靂(へきれき)で、なぜこんな乱暴な言い方をされたのかさっぱり分からない。ただ想像できるのは、この真夏日に迎えた終戦。子供たちも荒れ地を開墾したり、河原からの石運びや武道のけいこにも必死だった。すべてが徒労に終わり脱力感におおわれていたのだ。
 私がもし生きた鰯の目のようだというならば、それは、この七月に母が子宮筋腫の手術をして病院から生還してきたからだ。また、出征して中国と台湾にいるという二人の兄が、終戦で必ず帰ってくる。そしたら、この田舎でのどん底生活から抜け出せる。単純にそう信じていたからに違いない。
 その日、私が下校しようと校門まで来たとき、外側で私に冷たい視線を向けているグループに気がついた。梅組でも親分肌のカメさん、その子分格の玉ちゃん、和ちゃん、ヨウちゃんの四人組だった。いつも帰る方向が同じだがこの気配はただ事ではない。私が校門前の県道を帰りかけようとすると、がやがやと四人組もついてくる。急ぐと向こうも急ぐ。
「やーい、やーい、あんずさんの目は生きた鰯の目エ、うちらは死んだ鰯の目ェ」と、嘲罵(ののしる)するように連呼する。私はとっさに怖くなって走りだした。
 県道の両側の稲穂が風に揺れて、私に声援の旗を振るようにつづいていた。もんぺとブラウス姿にかばんを脇に抱え、それに祖母が編んだわら草履をはいていた。わら草履は軽く、これもまた祖母が励ますようだ。気ばかり焦って両足が絡まりそうになる。おまけに、前夜の雨含みの県道で草履がだんだん重くなり、やたらに小石や砂を後足へ跳ね上げる。それでも一気に五、六百メートルくらいを走ったが、四人組も影絵のようについてきた。駅前の家まであと五百メートル。心臓が躍りだしもう走れなくなった。
 目前に小さな川があった。ここからの県道は登り坂になっていて、四国山脈の裾野とはいえ平地よりは一段と高いところに造られた駅のある通りにつないでいた。このまま坂道を行くのは苦しいし、川を上手にとっても余計に不利になる。たった一つ、川沿いに下だるしかないが、この土手は今まで通ったことがない。すぐの向こう岸に避病院があるからだ。伝染病の隔離病舎で、あそこには近寄るなと日頃から聞かされていた。咄嗟(とっさ)に私はここへ逃げ込むことにした。一本の木橋をわたりずらりと並ぶ病舎の裏手にまわった。
 建物はひどく荒れ果てて、ひとっけはもちろんない。慌てたトカゲが数匹、叢(くさむら)から跳び出して、一瞬、息の止まる思いがした。雑草が生い茂り硝子窓は割れ、中を覗くと床は落ちて消毒薬が白くこびりついている。壊れた病室越しに県道を見たら、四人組がこちらを睨んでいて再び緊張した。一分くらい睨みあっていただろうか。避病院に逃げ込んだ哀れな小羊に武士の情をかけたとでもいうのか、四人組は悠々と県道を帰っていくではないか。その途端、私は足元の叢にへなへなっと座り込んでしまった。
 翌日、学校では私と四人組の話でもちきりになっていた。この敗走劇を校舎の屋上から見ていた生徒がいたためである。その悔しさ恥ずかしさをバネに、私はそれからの受験勉強に拍車をかけていた。明けて昭和二十一年春、東予でも名門の一つと言われた県立の高等女学校に合格。四人組とは別れたが、あの避病院での気味の悪さは、当分、忘れられなかった。

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ボリショイサーカスを見て

  所用があって東京へ行ったら、ボリショイサーカスがきているというので見にいくことにした。久し振りに童心にかえりたかったし、ソ連邦消滅が伝えられる中、ようこそ、との思いがあったからである。
 東京ドーム前特設テント内は、立ち見客も押しかけて超満員だった。開幕と同時にシーソー・アクロバット、イリュジョン(魔術)などとプログラムは展開したが、まず驚いたのは演技者のことである。男も女もつぎからつぎへと出てくる。揃って美しくしまった筋肉と均整のとれた体型で実にきびきびしている。それに意外と小柄な人もいる。テレビで見かける大柄で豊満なあのイメージのソ連人ではない。どういうことだろう。よくよく見ると金髪の西洋系の人がいるかと思うと、日本人と同じ黒髪をした人もいるのではないか。
 こんな彼らが和気藹藹(わきあいあい)と、オリンピックの体操のような絶技を披露してくれる。これは単なるサーカスではないぞ、と思った。
 サーカスのちらしによると、なんでも団員は七千五百名、今回そのうち五十名ほどが出演している。殆どが国立サーカス専門学校の出身者だが、この学校に入るのに全国各地から集まりその競争率が三十倍以上だそうだ。あらためて世界大百科事典『ソヴェト連邦』を引っ張ってみると、ロシア人を筆頭にユダヤ人、北方諸族、中国人とその数約二百近い民族から成り立つとある。他民族とは知っていたが、なりほど、彼らの多彩ぶりとエリートぶりが納得できるわけである。
 つぎに彼らと共演する動物が、猿、鶏、犬、猫など人間と共存するものばかりなのに気がつく。唯一、動物らしい動物が出てくるのは三匹の熊だけで、それも私はぬいぐるみかと間違うくらいおとなしかった。その熊が人間並にアクロバットとダンス、それに輪投げまでするのだから、ほのぼのした親近感が沸いてくる。
 三年ほど前、私は大阪にやってきたラスベガスの『ツムラ・イリージェン』というのを見たことがる。これはマジックショーだったが、場内に煙がたちこめレーザー光線がまたたく中、人間よりもむしろ動物が主役とばかりに出てきた。ただ、あのときライオンや虎や象が狭い舞台に頻繁に現れて、なんとも落ちつかなかったものである。アメリカの豪華、絢爛さに比べて、ソ連のこれはなんと素朴さの漂う光景であろう。この農村的な雰囲気と洗練された都会的な演技とが不思議にマッチして、観客をぐいぐいと引き込んでいく。やはり効果的な演出ということだろう。
 一番の見せ場だと思ったのは、やっぱり空中ぶらんこで、ここでも演出のうまさが際立っていた。空中で向かい合う二組の演技者がゆっくりぶらんこに揺れる。相方のぶらんこに手渡りしていく技は、絶対に失敗は許されない筈である。場内の観客がしんとなって見守る中、間一髪のところでのっけから失敗を演ずる。それは巧みにである。みんな思わず息をのむ。演技者は二十メートルはあるだろう空中から落下し、もちろん網の上だが、二、三回跳ね返ってむっくと起き上がる。この失敗を見破らないように二回目も三回目もやってのけ、みんなを失望させておきながらつぎは一気に成功させる。場内に割れるような拍手が巻き起こる。この呼吸を引き取るように、成功を連続させて観客の気分を最高潮にもっていく。この演出ぶりは心にくいばかりである。こう言いながらも、どっぷりと私もその興奮に使っていた。
 サーカスを見たその日(平成三年十二月二二日)の新聞に、又ソ連のニュースが出ていた。『国家共同体を創設』(朝日)、いよいよソ連邦六十九年の歴史に幕がおりたと報じられている。あの笑みを浮かべた演技者たちの身分は?何にもまして、彼らの心はどこへ帰るのだろうか、と思った。

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ミシンの価値

 NHKのテレビ放送で「海を渡った中古ミシン」というのがあった。使われなくなった足踏みや携帯用ミシンを、日本の業者が補修してベトナムへ贈りつづけているという話。戦争に傷ついた女性たちの自立に役立っているという。足踏みミシンといえば、私の疎開時代を思い出す。
 太平洋戦争の頃、私は大阪港区に住んでいたが、きょうだいが八人、両親合わせて十人家族。毎日割れ返るような賑やかさだった。その平和を破ったのが、警官をする長兄と造船所に勤める次兄にきた二枚の赤紙。ついで二人の姉が嫁いでいった事情もあって、瞬く間に四人も働き手の兄姉がいなくなった。日一日と戦雲が濃くなる。私も小学校で学童疎開の準備が始まった。不安になった父は、残った十五歳を頭に四人の子供と母を連れて、愛媛のふるさとへ疎開すると言い出した。昭和十九年六月だった。
 疎開はしたもののこれというツテがあったわけではない。三十年もはしけ乗りだった父は、陸(おか)に上がったカッパも同然で定職が見つからない。魚の行商を始めた。住まいは、ある素封家(そほうか)の納屋。そこに大阪からの家財道具が一切(いっさい)合切(がっさい)、たんす、水屋(=食器棚)は言うに及ばず、石臼、植木鉢、たきぎに至るまでが所狭しと同居したが、めぼしいものは何もなかった。ただ、その中でピカっと光っていたのが一台の足踏みミシン。かなりの中古品だが、わが家で活発に動いていたのである。
 あの頃、衣料品も御多分に漏れず逼迫(ひっぱく)。配給のくじ引きでは、お目当ての上着やシャツのかわりに軍手、タオルくらいしか当たらない。気の利いた着物は物々交換で米や醤油に消えた。そこでミシンがフル回転。母と三番目の姉は、布団のカバーをつぶして家族の下着を縫い、銘仙の着物をモンペ上下に仕立て直し。夏のカンタン服は近所の子からハイカラだと羨ましがられた。また、縫い物もよくした。一部屋しかない住まいには、朝から夜遅くまで、ミシンの音が生活のリズムとして響いていた。
 田舎での二度目の夏がきた。やがて終戦になろうとは夢にも思わなかった。母がどうした訳か、急に痩せはじめ生気のない顔色をしているのに気がついた。「お母さんが町の病院へ入院することになったのよ。」と、姉が耳打ちしてくれた。「『しきゅうきんしゅ』という病気でね。手術しないと大変なことに」。その病名は十一歳の私には理解できなかった。放っておくと母が危ないことのほうが切実で、小さな胸は張り裂けそうだった。母が助かるためなら、天秤棒で井戸水を漉し台へ運ぶことだって、開墾した山地の水やりだって、水辺のセリ取りだって、母のやっていたことを何でもするわと、私は心に誓っていた。
 母が入院するという日、不審なことに出合った。見知らぬ男がリヤカーに、うちのミシンを悠然と積んで立ち去ったのだ。二週間ほどして母は元気になって帰ってきた。薄手の着物をまとう姿は、まだまだ弱々しい感じがしたが、その笑顔の確かさに私はほっとした。だがミシンはもう戻らなかった。なんでも予想以上に高く買われていき、そのお陰で母が入院、元気になれたのだから仕方がなかったと、姉が後になって教えてくれた。
 ベトナムに送られたミシンは八百台余り。町の集会所で講習を受け、自信の持てた者から自立していく。ミシン一台あれば家族が養え、二台あれば店がもてるという。一台の中古ミシンが母を救ったあの時代と似ている。今、うちには二台の携帯用がある。私の嫁入り道具の足踏みをお払い箱にして買ったスタンダード型と、セールスマンに強引に売りつけられた多機能型。これを売るとなると、もはや二束三文。治療費の足しにもならない。この不均衡ぶりはどこから?やっぱりミシンの価値は、機械よりも活用の仕方ということか。複雑な気持ちである。

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花博(大阪国際花と緑の博覧会 1990年)が私に残したもの(1)

 お盆のころ、花博に二度ばかり出向いて行ったが、私は癖へきしていた。会場に着くと、ついつい人気のある「街のエリア」に足を向けてしまう。パピリオンに入るために、炎天下を一時間から二時間近くひたすらに並んで待つ。要領の悪い私などは、これだけで疲れはてる。ほかを見て回るエネルギーさえも失ってしまうありさま。私の花博とは一体なんだろう。結局、終幕という九月三十日、三度目の正直を行くことにしたのである。
 その朝のニュースで、台風二十号の白浜上陸を伝えていた。雨風は窓硝子をたたき、窓からみえる公園の“にせアカシア”が、大揺れにゆれている。「物好きな」。家人のひんしゅくをかいながら、私は雨支度し着替えを用意して家を出た。台風接近で人出も少ないだろうと単純な思いつきと、ささやかでいい、何か心に残る思い出を求めたかった。
 会場は予想に反して大混雑である。雨風は相変わらず強い。鶴見大池のほとりを歩くことにしたが、のんびりと歩けるムードではない。足早に一回りして、ふと、目についたのが「国際展示・水の館」である。三十カ国余りの特産品展示と即売会場。ここは待たなくてよい。雨よけを兼ねて入ることにした。
 雑踏のなかで何げなく立ち止まったのが、寺院風なゲート。ネパール王国とある。奥のほうに手作り人形がぶら下がっている。身長五十センチくらい、黒糸でつくったもじゃもじゃの頭。顔には蛇模様のあるお面をかぶせているが、巻きスカートとラグラン袖のきものをきているから、女性のようだ。手足は雑な木彫り。なんとも奇妙なのが、四本も腕があることだ。
「これは、なんの人形ですか?」。私は店員らしいネパール青年に尋ねた。「これ、
カリの神様。やくよけになります」「カリって、どんな神様なの?」「わたくし、日本語わからないから、これ以上せつめいできません」。定価七千円が五千円に値下げされている。私は買うことにした。
 ネパールの神様をかたどる人形。それがなんの神様であれ、ちょっと奇妙で、素朴で、なによりも厄除けなのが気にいった。その代価としての五千円、決して高くない。こう納得ずみなのに、さもしい主婦の打算が頭をもたげてきた。ネパールでは、どのくらいで売られているのだろうか。
 この国の貨幣価値は知らない。ベトナムの青年の月給が、日本円で四、五千円と聞いたことがある。仮に、人形の値段をこの月給に対比させるなら、換算できないくらい安いものだろう。五千円とは、いかにも日本的な値段をつけたものだ。会場までの運賃、人件費をたしても、こうはなるまいと勝手な想像をしてみた。
 だが、そんなことより、はるばる中国とインドに挟まれた山岳地帯からやってきた国。「ようこそ」と拍手を送らねばなるまい。その表現としての5千円と思えばいいことだ。日はとっぷりと暮れてきた。台風騒ぎは立ち消えて、私はカリ人形にすっかり満足しながら帰り道をいそいだ。
 その夜、新聞記事をみてある偶然性に驚いた。山のエリアに建てられた国際庭園のなかの、ネパールの事情である。この国の代表的な寺院パゴダ(平和の塔)と付属施設サタル。そのサタルだけの建設費六百万円が、払えないで困っていた。花博終了後、国際庭園は全て残されるそうだが、負債のあるものは引き継げないと、大阪市などから撤去を迫られていた。が、ある篤志家の私費で救われ、パコダとサタルは揃って残ることになったとある。
 これくらいのことで、この国が貧しいとは思いたくない。それどころか、大変な仏教建築の提供を知って、もしかしてと、私のカリ人形への興味を一層かりたてられた。やがて、このカリこそ、ヒンドゥー教のご立派なメガミ様だと知ることになる。                                                       つづく

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花博(大阪国際花と緑の博覧会 1990年)が私に残したもの(2)

 ネパール展示場で買ったカリ人形だが、ほんとうは発音違いで、カーリーだとわかるまでに、ちょっとしたハプニングがあった。
 翌十月一日、私は花博の外事課に電話して、カリについて知りたいのだがと、事情を話してみた。ところがその時、私は思い違いをして、ネパールと言わずにパキスタン展示場で買ったと言ってしまったのである。それじゃあ、大変な親日家のパキスタン人が、此花区に住んでいる。親切に答えてくれると思うから聞いてみなさいということになった。
 その人の名はミスター アシュラフ。一面識もない私の唐突な電話に、はっきりした日本語で答えてくれた。「四本の腕があるなら、ヒンドゥー教のカーリーに間違いない。ぼくの国は回教徒が多いがね」。ここで初めて、お国の違いの人に尋ねるという全くもって失礼な、私のミスに気づいた次第である。それなのに彼は、カーリーに詳しい友人がいるから聞いてあげようとまで言われたが、丁寧にお断りした。ヒンドゥー教の神と分かっただけで十分だった。ただ、彼の日本語は流暢だ。ついつい、あなたの国のこと何でもと、お願いしたら気持ちよく応じてくれたのである。
 一九四七年八月十四日、インドと分離してパキスタン誕生。米、綿花がタクサンとれる。車、テレビ、ビデオといったものを日本から輸入、コールテンを輸出している……等々、書ききれない。既婚女性の社会進出については、結婚すると夫は妻を働かせないと、キッパリと言い切られた。だって、子供の面倒はダレがみるのですか。第一、お客さまがきたらダレが紅茶をだすのですか。砂漠の近い南アジア地方の家庭でも、私たちと相通じるものがあり、主婦の原点をつかれる思いであった。
 さて、アシュラフさんのお陰で私は、今まで知らなかったインド神話の世界をかいま見ることになった。その中で、カーリーはヒンドゥー教の三主神の一人、シヴァのお妃と分かったのである。主神のもう一人ヴィシュヌは、大洪水のとき、魚となって人間の始祖マヌの乗った船を髭(ひげ)につないで助けた。こんな動物崇拝と世界を救った化身の話が、ずらりと十種も並んでいた。
 シヴァは、破壊と万病治癒の神とある。なんと極端で矛盾したことだろう、つぶして治すとは。と思ったら、インドの季節風の恐ろしさと、その過ぎたあとの快い蘇生のおもいを象徴するのだという。言うなれば「飴と鞭」なのだろうか。厳しく人間をこらしめる一方で限りない愛情をそそぐ。シヴァ神は、敬謙な人々の憧れであり、生への偶像化であるに違いない。カーリーは、もともと温和でやさしい女神であった。が、シヴァと結婚後は、恐ろしい顔形で残酷な神として、夫同様の信仰をうけてきたとある。驚くべきはそのルーツが古いこと。前二千五百年ころのインダス文明で、シヴァに似た神像や夫婦仲よく並んだ彫刻が発掘されている。インド人の約八割はヒンドゥー教徒というから、地続きのネパールも含めて、数千年も前からヴィシュヌ、シヴァ共々、カーリーはこの地に息づいているわけである。
 ここで、以前聞いた原始仏教の話を思い出してみよう。お釈迦さまは二十九歳で身分、妻子を捨てて出家。三十五歳のとき、菩提樹の下でブッダ(覚者)のなり得ているが、このブッダの特色は性否定にある。女は信頼できない、不浄で汚らわしいとした。現代ならさしずめ、女性蔑視も甚だしいと言いたいところ。ブッダがその生誕地インドに広まらなかった理由が、これにあるといわれる。前五百年ころのブッダにくらべて、前二千五百年のヒンドゥー教のお妃樹立は、恐ろしくもはるかに進歩的。ウーマンパワーの元祖であるような気がして、親しみがもてるのである。
 素朴なカリ人形は、我が家の居間にずっとぶらさがっている。これからネパール、パキスタンに熱い視線を向けることになりそうだ。

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南京虫の独白

 おいらは南京虫である。
 おいらの生業は、人間さまと共存しその生き血を頂戴することだ。あの暗黒街に巣くう悪玉に似ている。でもって人間さまは、おいらのことを蛇蝎(だかつ)の如く嫌うが、おいらだって生きる権利ってヤツがある。
 平凡社の世界百科事典にも「半翅(はんし)目トコジラミ科に属し、体長五ミリ外、褐色、細長い円盤状で……」とあるように、おいらはシラミの一味でれっきとした昆虫さ。
 遠い親戚に、アメンボ、セミなど純粋な奴もいる。たかが五ミリそこそこの小物に、そう目くじら立てることはないと思うがね……。

 
ところで、おいらが黄金時代はなんてたって、あの太平洋戦争を境とする戦前から戦中のころだろう。
 で、ここに昭和十五年ごろ再現し、ふりかえって見よう。体長五ミリそこそこのおいらをめぐって、人間さまは悲喜交交(ひきこもごも)。げに滑稽な略奪合戦を繰り広げていたんだから……。
 舞台は大阪港区。とある路地裏の四軒長屋に向かって左端の家である。今様でいえば三Kの広さに、なんと驚くなかれ「家族」という名の人間さまが、十人も住んでいた。
 二階にある一つの部屋は三人の野郎ども(息子)が占領し、残る一方には「鬼も十八番茶も出花」の娘を頭とした、三人の娘たちがわいわいがやがやと起居している。
 階下の台所兼居間は、(兼)寝室でもある。両親に『南京虫の独白』の作者である女の子(四女)とその弟(四男)が寝ていた。こんなニンマリするような構図だからこそ、おいらが仕事がやりやすかったという訳さ。
 さて頃は八月。一年中の書き入れどきである。早朝のしじまを破って、トン、トン、トン、と階段をかけ降りてきたのは、一番上の娘。「また、南京虫に噛まれた!すごい痒い」と、母親に訴えた。と、つづいて「うちもや、こんなホロセが……」と、二番目三番目も降りてきた。泣きべそをかいている。娘たちは殊更においらを嫌った。
 それもその筈、同じ標的でも野郎どもより娘たちの内股や臀部(でんぶ)を狙ったほうが、快感にきまってら。だからこそ、娘たちは痴漢にでも合ったように騒ぐのさ。
 さっそく娘たちの母親は、恨み骨髄に徹するおいらと対決する次第と相成る。母親は部屋の真ん中に、おもむろに新聞紙を広げた。
 実はおいらを退治する仕掛けが、昨晩のうちにしてあった。布団が敷かれる。その上に、おいらが同業者である蚊よけの「蚊帳」をつり、さらに部屋の四方に木片が並べられる。
 縦・横四センチ、長さ五十センチぐらいの直方体の木片には、多数の穴があけてある。隙間や暗がりに潜みやすいという、おいらの習性を逆手にとったものだ。
 昼間、畳や柱の割れ目に住むおいらが、深夜になってやおら這い出し人間さまを襲う行き帰りを、生け捕ろうという魂胆さ。お笑いなのは、こんな木片が荒物店で堂々と売られていたことさ。
 コンコン、コンコン、と母親は、仕掛けておいた木片どうしを新聞紙の上で叩く。穴から頓馬なおいらの仲間が飛び出してくる。人血を吸ったのは、「ぼくじゃない、あいつだ」「いや、違うちがう」と、逃げまわるあのサマはちとみっともないがね。母親と女の子は容赦なく、プッチン、プッチンと親指の爪で押し殺していく。
 お気の毒だがこんな原始的なやり方では、おいらは挫けない。あまつさえ港区でも名うての低湿地帯ときている。ポットン便所や吸い込みカイショの不潔さ加減は、おいらの卵のこの上ない壌土であった。おいら仲間は嫌が応でもふえていく。
 とはいうものの、おいらにも強敵があらわれた。「リンデン」とかいう水色がかった粉薬や、戦後に進駐軍がもたらした「DDT」なるものがそれだ。さすがのおいらも降参だった。こんなモノを吸い込んだ日にゃー、人血を吸う力も消えうせて、おいらの体はペッチャンコ。生ける屍になってしまう。
 だが、いつの世も幸運はつきものさ。「リンデン」なる粉薬は値が高い。貧しい四軒長屋のくだんの家は、もっぱら木片が主力。母親と女の子は、旧態依然たる「コンコン、プッチン」をやらかしていた。おいらは自由奔放にふるまった。

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次元のひくーい話

 十五年前に買ったわが家のテレビは、甚だしく老朽化していた。そのひどさ加減は、この際、省かせてもらおう。今冬、夫が入院したが四月に退院という頃、思いきって買い替えることにした。快気祝いのつもりである。電気にからきし(・・・・)弱い私が、日本橋の電気街で悪戦苦闘、やっとモノにしてきたのである。
 約束の日。日立カラーテレビ、29インチ、衛星放送チューナー内蔵っていう代物が、運ばれてきた。業者は梱包を解く。組み立てる。据えつける。その手際の早いこと。
 さて、帰ろうという時に業者が言った。「これ、リモコンです。詳しくは、この取扱説明書をみてお使いください」。(ちょっとお待ちください。私はこのの本が苦手。くわしすぎて分かりにくいんです)。手っ取り早く教えてもらった。チャンネル②~⑫は今まで通り。③はサンテレビ、⑤はテレビ大阪、⑦は京都テレビ。音量と電源ボタン。これだけでもう充分。取扱説明書はそのとき、ポーンと棚の上に放りあげた。
 夫が無事、退院してきた。新品テレビはお気に入ったようで、朝っぱらから時代劇をみている。リモコンも好きなように繰りだした。私は三十年このかた、NHK朝の連続テレビ小説のファンである。たった十五分間の放映だが六ヵ月もつづく人気番組だ。
 たまたま四月から『凛凛(りんりん)と』が始まっていた。これは、早稲田の名物教授、川原田博士の自伝的ドラマ。テレビの研究開発者である。
 明治の終わり、魚津から上京する苦労少年、幸吉(こうきち)と、長州藩士の娘、郁(いく)との出会い。貧乏にもめげず、前向きに生きる幸吉を慕う郁。さまざまな試練をこえて、ふたりの愛が実っていくという筋書き。八月初旬、ふたりの愛が結ばれようとするヤマバにきたときだった。
 普通、演技者のセリフは耳できく。情景は、目で見ることができる。ところが、この情景に艶消しなカイセツが入るのだ。例えば、こうだ。『郁が物憂げに、部屋の窓にもたれている』『幸吉やってくる』『幸吉と郁、抱きあう……』見ていてハラハラした。
 午後七時のニュースでも夫が騒ぎだした。おなじみキャスターの口から英語が流れてくる。どうしたことだ。私はとっさにこう思った。ドラマは福祉月間?英語は花博で来日した外人のためだ。が、毎日見ていて辛抱にも限界がきた。
 ある午後七時過ぎ、ニュースをかけたまま私は受話器をにぎった。 「もしもしNHKさん、一体、これはどうなってんですか」「失礼ですが、最近お買いになったテレビでは?」。落ちついた管理職タイプの声。(テレビをいつ買おうとこちらの勝手でしょう)返事をしなかった。「じゃ、リモコンが手近にございますか」。こちらの意図がまるで分かっていない。あるにはあるが、腹立たしさはつのるばかり。「リモコンをお取り下さいませんか」。あまり低姿勢なので、しぶしぶ取った。「音声切替ボタンがありませんか」。(そんなややこしいボタンなど知りません。でも……)よく見たら下段にちゃーんとある。「それを押して下さい」。押してみた。画面の右肩に「主/副」の文字が出る。(日本語と英語が同時に聞こえた)。もう一度押して……。(向こうのペースにはまり込んだようだ)「主」の文字が出て、ニュースは日本語に変わった。三度目を今度は自分勝手に押した。「副」の文字が出て、元通りの英語だけ。この様子は、すべてあちらにはお見通しのよう。「副」は、目の不自由な人のために、ドラマの解説も入ると言われた。あくまでも慇懃(いんぎん)な係員の姿勢、私は顔がほてり、冷や汗がながれた。
 テレビは音声多重放送という最新型で、私には『ネコに小判』だった。いつの間にかリモコンが「副」に変えたままになっていたわけだ。矢面にたたない夫は、初めに聞かなった私が悪いのだと、平然とうそぶいた。
 あのときの恥辱が、まだ冷めないでいるというのに、私は、今、ソニー電子辞典の虜になっている。私ごときオバン向き、超低次元苦情相談窓口というのを、メーカーが新設してくれないかと、まじめに思っている。

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新大阪発上りひかり号

 じりじりと肌に汗ばみを感じる頃を、薄暑というのだそうだが、そんな六月初旬の土曜日の昼さがり。駅構内は旅支度の人々でごったがえしている。花博帰りや単身赴任者の自宅へ急ぐ者も多いのだろう。ホームに上がると、自由席の乗客が長蛇の列をなしている。私は久しぶりにリッチな気分で行列のあとにつづいた。もろもろの身辺の整理が一息ついたので、ひとりのんびりと、東京近郊の散策でも楽しもうとやってきている。
 車内は百パーセントの混み具合。私は三人掛の通路側にやっとの 思いで座る。発車のベルが鳴る。適度の冷房、振動の少なさに、さすがは特急列車だとつくづく思ったりする。京都を過ぎるころ、右隣の老人ふたりが、カップ酒と折詰めをひろげてつつきはじめる。左隣は会社員風の若者で、こちらも缶ビールに弁当を食べながら、何やらいかがわしいカラー写真入りの雑誌を眺めている。どうやら前後の人々も、口に食べ物を運んでいる様子だ。早めの昼食を済まして乗った私には無関係である。目をつぶり、ふと、昔を思いだす。
 三十八年前にもなる。田舎の高校を卒業した私が、両親のもとから一人で大阪にくる、貧しい旅立ちのひとこま。夜行列車の鈍行である。持ち物はバッグひとつ。新調したスーツを着込み、所持金は三千円也。上着の裏に母が縫い付けてくれる。これからの唯一の自活資金であった。列車は混雑をきわめ、入り口に近い通路に新聞をひろげて座るほかなかった。どの辺までこの状態が続いたのか記憶にない。
 入り口のほうから、便所の臭気が余寒の夜気に乗って私に迫ってくる。客は引っ切りなしに便所にゆききする。そのたびに私は立ち上がり、さもしく胸を押さえてお金を確かめる。卑猥な話し声、食べ物をほうばる者、泣く子供、わめく酔っ払い。薄暗い電灯のもとで犇(うご)めく客たちのありようには、翌朝までかかる大阪への、貧しい三等列車の悲哀と気楽さが漂っていた。
 目をあけると、名古屋に滑りこんでいた。しばらくたつと、うしろに陣取る男性グループのほろ酔い機嫌の会話の声がエスカレートしてくる。隣の老人も前に座る連れと椅子越しに話しだす。若者は携帯ラジオを鳴らす。わずか三時間だというのに、どうして、こんなに飲み食いし騒ぐのだろう。これではあの鈍行なみではないか。外人夫婦の姿もみえる。私だけでも上品に見栄をはっていよう。
 鰻弁当はいかがですか。販売員のラッシュになる。こんなところで鰻弁当もあるまい。千日前の“いづもや”の鰻重ならいざ知らず。冷コーヒーにクロワッサン……。ちょっと洒落てるぞ。ジュースにウーロン茶は……。「ウーロン茶ください」と前の客が言う。「二百円頂きます」。なんと! 高過ぎる。ソフトクリームはいかが……。隣の老人グループがおいしそうに食べはじめる。私の血糖値が、首を横にふり睨みをきかせてくる。
 静岡あたりから、徐々に私の平衡感覚がくずれかける。頼みの富士山もその姿を見せていない。ちぎれ綿を浮かせたような雲の、晴れあがった青空の下で陣取る遠景が、わずかな清涼剤だ。トンネルにさしかかるたびに、私の鼓膜はキーンとつっぱり耳はふさがる。尾骶骨(びていこつ)がやたらに痛く、両太股はけだるい。後頭部はジィジィと鳴りだす。もう我慢の限界だ。その時耳に飛びこんだのは、再びソフトクリームはいかがの声だ。前後の見境なく通り過ぎた販売員を、私は大きな声で呼びとめた。
 ソフトクリームをむしゃぶるように食べた。つーんと鼻腔をつきあげるその心地よさ、爽やかに広がる口腔の涼感がたまらない。やっと神経が落ち着いたと思ったときだ。車内放送の声がした。「東京―、終着駅、東京です」。
 せっかく超特急に乗りながら、変なところで見栄を張ったばかりに、その中身は惨憺(さんたん)たるもの。これは、取りもなおさず旅下手で、生来の貧乏性がなせるわざというほかない。

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ゴキブリ退治

“ダニは高い所がお好き”最近、こんな有り難くない高層住宅の調査結果が、新聞にでていたが、コキブリは関係ないのだろうか。それとも、主婦たる私のだらしなさか。我が家は高層住宅に住んで十八年余になるが、数年前からゴキブリが出没するようになった。
 マンションは気密性が高く、風がきつく窓を開けにくいので、自然換気が少ない。おまけに冬場は暖房する。高温多湿の中でゴキブリは、図太く冬眠し、台所のゴミをエサに春から夏に繁殖する。ゴキブリ一匹は十匹に匹敵するといわれる。そこで我が家は、春先と初夏に一回ずつ、バルサンを焚いて一網打尽を狙っている。
 十月中旬の夕方のことである。いつも聞き流している消防車のサイレンが、だんだん小さくなるどころか、大きく強く迫ってきた。とっさに窓下を覗くと、わが住むマンションを五台もの消防車が包囲し、隊員たちが機敏に白いホースを延ばし始めている。
「F棟が火事や」。廊下に叫ぶ人の声。私の心臓は早鐘をうつ。どうしょう……。なんべんも下を覗く。隊員たちの動き、白いホース点滅する赤い灯が入り乱れて、一層慌ただしい。どこが火元か、うちの角度からは見えない。向かいの公園には、あちこちからやじ馬が駆けつけ、こちらを見あげている。
 廊下では、近所の人々が右往左往している。確かな情報は誰も分からない。時間外で管理室からの放送もない。人々は非常階段へと急ぎはじめるが、私はまた、うちにとって返す。部屋を念入りに見渡す。電気、ガス、テレビすべてOK。さあ、急ごう。
 だが、マンション火災は水害もつきもの。とっさに、夫自慢の二台のカメラが脳裏をかすめる。二十七年製ニコンSとアイレスフレックス。〆て十五万円したという代物。これだけは持ち出そう。
 待てよ。私にも大事なものがあった。ワープロだ。難しい操作はなにもできない。仮名と漢字を拾うのがやっとだが、今や、これの熱病にかかっている。これがなかったら…。
 そうだ。そんなものはどうだっていい。一刻を争うのだ。命こそ、あっての物だねと、再び廊下にとびだした。誰も見あたらない。無気味な予感がする。非常階段へと走りだした。急にうしろで騒々しい人声がする。どうしたのだろうと、とんぼがえりをうつ。エレベーターから近所の面々が降りていた。
「バルサンの煙だったそうよ」「人騒がせな」
 みんなが口々にぼやいている。忿懣(ふんまん)やるかたないのか、廊下からなかなか立ち去らない。ある家がバルサンを焚いたまま留守にした。隙間から漏れる煙に、すわ火事だと隣人が119番した。はしご車が件の家のベランダから入り、原因がつかめたというのだ。
 本物の火事でなくてよかったと、私はほっとしながらうちに戻り、何回目かの窓下を覗いた。さっきの騒動はどこへやら。消防車は影も形もない。とっぷり暮れた道路に街灯が光るだけ。やれやれと、私は部屋にへたりこんだ。ふと見ると、押し入れから二台のカメラが引きずりだされ、大風呂敷に包まれたワープロが、部屋の真ん中にあった。言いようのない恥ずかしさで顔が赤らむ。家族が帰らない間にと、私は慌てて元通りにした。
 あくる朝である。一階の掲示板にデカデカと、次のような張り紙がでていた。

お 知 ら せ
バルサン等使用される場合は、必ず消防署に届け出ると共に、玄関扉、南北の窓硝子面にその旨掲示して下さい。尚、念のため管理事務所にもご連絡ください。
大阪市火災予防条例
(火災とまぎらわしい煙等を発するおそれのある行為等の届出)第五十八条一……。

 ゴキブリ退治などとは、こっそり実行して涼しい顔をしていたいもの。私は後頭部がずきんと痛んで、掲示板から離れられなかった。

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