影絵

  うちのご亭主が、不慮の事故でケガを負ってしまいました。「左肘剥離(はくり)骨折」という全治3ヶ月のケガを……。
 それは二〇〇六年十一月初旬のことです。
 南港「中ふ頭」の街は明るくて見通しがよく、大阪でもシンボル的な地域で知られています。そんな町の舗装道路に敷かれた簡易レンガに、足を奪われて転んでしまったのです。

「そりゃ、もう齢だから、仕方ないよ」
 こう片付けてしまうのは、余りにも酷というものですよ。「若い者には負けへんぞ」と、老いてますます意気軒昂(いきけんこう)のお方です。「一寸、戒めてやれ」。おそらく天に在わします神様の、嫉みに合ったのでございましょう。
 もともと負けず嫌いの彼のことですから、入院、手術そして三週間の固定期間を、まあ平然とクリアしましてね。「さぁ、今日からリハビリを」と、主治医より許可が出てからというものは、ご自分でも、そりゃ、涙ぐましい努力をなさったようでございます。
 彼は、こよなく愛する晩酌を嗜んだあと、「飯」をお召し上がりになり、終わるや否や、いつも「風呂」と申されます。私はなるべく遅めの入浴をと願うのですが、一刻の猶予もありません。血圧や尿酸値が高いから、気が気でないのです。
 そこで私は、浴室の外からドアをコンコン鳴らして、「生きてますか?」と、少しばかり恨みもこめて軽口をたたきます。すると決まって「おー」と返ってくる。その声に安堵して、台所へ戻るのを常としています。
 さてリハビリが始まり、二、三日経った頃だったでしょうか。彼がどうも長湯なので気になり始めたのです。どうしたのかしら?いつもの<ドア・コンコン>、「生きてますか?」「おー」では納得できません。そのとき意を決した私は、痴漢よろしくこっそりと少しドアを開けて、中を覗いてみたのです。
 なんと彼は、湯舟に全身を横たえたまま、硬直した左腕を上下させたり、屈伸させたり。グウ、チョキ、パーと、指のリハビリにも励んでいるのです。真剣な面持ちで…。
 見えっ張りの彼は、こんな光景を妻に一度も見せたことがなかったのです。『あれぇ、いつの間にか、左腕が動くようになったぞ』と、うそぶきたいのでしょう。私はそおっとドアを閉じ、知らん振りをきめこみます。
 ところで人間の睡眠は、レム睡眠とノンレム睡眠の繰り返しだと、医学講座で聞いたことがあります。眠りは深いが脳波は覚醒時のような型を示すレム睡眠。一夜の睡眠でほぼ二時間おきに二十~三十分つづく。一方、ノンレム睡眠は深い眠りに陥る状態をいい、一夜の睡眠の八割を占めるそうです。
 ある夜中。私はまさしくそのレム睡眠から抜け出たような状態で、パツと目が覚めたのです。意識は朦朧(もうろう)として夢うつつです。寝室は真っ暗。ただ硝子窓の内側に建て付けた障子には、夜空の雲間から漏れる月光のせいでしょうか、ほんのりと明かりがさしています。
 その障子に私は、はっきりと、真っ黒な狐を目撃したのです。その驚愕さ加減といったら例えようがありません。狐は、尖った口をパクパクさせ、コンコンと鳴き、首をぐいっと伸ばしたりすくめたり。あぁ、恐ろしい。
 狐は一瞬、私を野生の世界に引きずり込みました。が、ほどなく、それはメルヘンチックな「影絵」の悪戯だと気づいたのです。
 首をぐいっとのばしたその付け根に、黒い大きな固まりがご亭主の頭だと分かった、そのときの可笑しさったら。狐は、正体がバレているのに霊力の赴くがごとく、<口パクパク><首ぐいぐい>を一層、活発にさせています。ぐっと笑いをこらえる私。そう、彼は夜の目も寝ずにリハビリに励んでいたのです。
 長湯で心配させたり「影絵」で驚かせたりしながら、全治を半月も早めたご亭主は、ある日、案の定つぶやきました。『あれぇ、いつの間にか、左腕が動くようになったぞ』と。

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老いのあがき

 夫七十七歳、妻(私)七十二歳。今やこの国の、五人に一人という高齢化社会の中枢的な陣容であろう。なのに、どうしたことか、私共は世間から抹殺されまいと、切磋琢磨の日々をすごしている。かような有様で……。
 夏至が近く、まだ太陽も沈もうとしない午後5時半すぎ、早めな二人だけの夕食タイムだ。夫はちびりちびりと晩酌をやりながら、だしぬけに話しかけてくる。
「それはそうと、カァサンや。俺のガン保険はどうなっている?」「どうなってるって、月七千五百円の保険料を、かれこれ七年ぐらい払いつづけているかしら?」「そんなこと分かっているよ。それより、このまえ『心臓疾患』で入院したときに、見舞金でも出たんかと、聞いているんや」「出る筈ないでしょう。ガンではないんだから……」「そんな保険なんて、あるやろか。おかしいぞ」。憤った夫の顔がみるみる変わって、私に怒鳴ってきた。「解約だ。今すぐ会社に電話しろ!」
 彼は過程ぬきに結果だけで私に迫るから、毎度ことがややこしい。酒量ふえるにつれ同じことを繰り返すが、言わんとすることは分からぬこともない。ガン保険といえども、他の病気で入院したとき見舞金ぐらいは払うべきだ。現に加入している交通災害保険(損保)からは、交通事故でないケガでも慰労金が出たではないか、という論法なのだ。
 急いでガン保険の約款を開いてみる。悪性のみが対象だ。同じガンでも良性ポリープ、上皮内新生物(腸粘膜内ガン)は、該当しないとある。では、なぜ、こんな融通のきかない保険に入ってしまったのだろうか。
 若いときから彼は保険ぎらいだった。病気になんかなるものかと、意気軒昂たる産業戦士そのものだった。二人の娘を育てる専業主婦の私は、やみくもに路頭に迷う母娘の絵図ばかりが胸中を去来し、どれほど夫に泣きついたか。が、彼は頑として首を縦にふらない。ついに保険なしの生活をずっと続けてきた。
 ガン保険は定年後、彼が七十歳のときに加入した。今なら有利だからと厚生年金協会からすすめてきたのだ。ガンにはかかる筈がないという冒涜(ぼうとく)心があったのか。それとも現役時代の上司や仲間も入ったというから、付和雷同したのだろうか。彼は、「ガン保険」という名の生命保険を後にも先にもたった一度だけ、この時、自分の意志で購入した。以来、その給付を受けないで済む幸運な道を、歩んで来てはいるが。
≪……解約だ。今すぐ会社に電話しろ≫
 頑固一徹な気質は昔も今も変わらない。時間は午後七時前。電話の向こうの社員は、昼間のような繁忙さの雰囲気から「何とか解約を思いとどまって」と、こちらを慰留する。それをムゲにも断れと、夫が私の横でせっつく。
 後日、解約書類が送られてきた。私は早速必要事項を記入、添付すべき書類も同封の上、封筒の口を糊付けした。
 これと同時進行で、私は別の保険会社を二、三あったてみた。七十七歳にもなっては、どこも簡単に門戸をかけてくれそうにない。
 郵政の簡保保険は七十歳までだ。しかも病歴の告知義務が付帯する。某社が八十歳までOKという入院保険をテレビで宣伝中だ。ありがたいことに告知義務なし。「これだ」と、書類をとりよせる。が、支払い対象外の欄に『心臓疾患』等と、小さいポイント活字がことさらに大きく光って見える。「あぁ、駄目か」。こうした私の下調べに感づいた夫は、「この年になると、保険にも入れんのか」と、ぽつり。私には何を今更の感がしないでもないが。
 糊付けしたガン保険解約の封書を投函しようと、私は夜の表通りに出た。と、ふいに彼の追っかけてくる気配がするではないか。
「悪いけど、その投函、ちょっと待ってくれんか」。多くを語ろうとはしないが、せっかく入ったガン保険を、不本意ながらも捨てたくない気持ちが痛いほど分かる。そこはかとなく見え隠れする「老いのあがき」。こんな日常生活を送っている私共は、まもなく金婚式を迎えようとしている。

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「もしもし 俺やけど」

 人様が定年を迎えようという歳から、老人ホームに勤め始めて足掛け十三年。今や老々介護の「感」強しの私だが、まあ何とかやっている。が、唯一つ気が引けるのは、勤務中に夫が電話をかけてくることだ。ここ半年くらい前からとみに頻繁で困惑している。
「山元さん、ご主人からお電話です」の取次ぎの後に、「もしもし、俺やけど」とくるこの口調。オレオレ詐欺の横行する昨今、その「俺」には惑わされない自信はあるが……。
 ダントツに多い用向きは、「今、○○店で、生きのよい魚を一匹買ったからな」である。
 魚はタイであるかと思えば、ハマチであったり、ヨコワだったり。元来、彼は買い物好き。それもこよなく愛する晩酌の肴を求めて歩く。私の勤め帰りに肴を買わなくてもいいという、忠告なのである。
 こんな彼を責められない弱みが、実はある。かつて私がホームから採用通知を貰ったとき、定年を迎えていた彼は真っ向から反対。女房のいない不便さ(昭和一桁(ひとけた)生まれの男の横暴か)が支配したらしい。一方、私は夜学で福祉を学び、この道に進もうともう決めていた。話し合った末、「ホームへはいつ訪ねて来てもよし、電話もよし」。こんな他愛も無い「協約」で、納得したような事情があった。
 この十月半ばの昼下がり。いつもの「もしもし、俺やけど」は、案に相違していささか緊張した声音。思わず受話器を握り直した。
「えつ、肝臓で緊急入院したって。それ、どういうことなの!」。オレオレ詐欺の新手かと思ったが、疑っている場合じゃなさそうだ。
 けさ心臓の定期健診で総合病院へ行ったのは確かだ。そのほうは異常なかったのに、数日前微熱があり、町医者の薬ですぐ治まったことを話した。それではと血液検査をしたら肝臓の数値が異常に高い。緊急入院せよ、と足止めをくらったのである。
 私は取るものも取り敢えず病院へ自転車をとばし、病室を探し当てた。まもなく華奢(きゃしゃ)で若い主治医が入ってこられる。胆管炎の疑いあり、一週間後にMRCPの検査をする。それまで絶食し点滴をつづける等々、丁寧なご説明。承諾書にもハンコを押す。否応無く権力に服従せざるを得ないような時の流れ。
 さすが入院嫌いの彼も観念しているかに見えた。休肝日もなく酒を呑む者の成れの果てか、とも思える。が、今更責めてどうなる。彼を≪奪回≫するための努力と辛抱あるのみと言い聞かされるほかない。ところがである。
 入院して三日後の午後八時。わが家の電話がけたたましく鳴り響く。この「もしもし、俺やけど」は、怒り心頭に発する様相である。「すぐ迎えに来てほしい。退院だ。こんな病院にはおれん!」が辛うじて聞き取れる。「いい加減にしてよ」とぼやきながら、夜の路地裏を斜交いに病院へと走らねばならない。
 連日の点滴で腹部が膨張し、浣腸剤を頼んだのに、三十分も遅れて看護師が下剤を押し付けてきた。下剤は如何に合わないか、カルテにある筈というのが彼の言い分。対する主治医はその対処の誤りを平信低頭にわびた上で、人道的にも退院は許可できないと、「退院」を主張する患者とは平行線のままだ。
 無理無体な言い分の夫が憎らしい。必死の説得も聞き入れようとしない。結局、一週間後のMRCPは必ず受けることを条件に、退院は許可された。私は主治医に深謝し、こん形で≪奪回≫することの悔しさを噛みしめながら、彼とともに病院を後にした。
 退院後、三分粥から八分粥へと、それに見合うお菜作りに苦心しながら、何とも心もとなかった。が、その心配をよそに彼には生気が漲りはじめた。体のメカニズムはどうなっているのか。MRCPも一ヶ月先に延びた。
 このところ陶芸に没頭だ。昨日は「もしもし、俺やけど。会心の花瓶ができたよ」と嬉しげだった。やえやれ疲れる。はた迷惑を考えず、呆れるほどに本音で生きる御仁である。

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山、清流に囲まれた町で

 拝啓 岐阜県郡上八幡町・観光課様


 突然の書状を差し上げる失礼をお許しください。私は大阪在住で、この八月上旬、私の夫と一緒に御地を観光した者でございます。
 東京の娘一家と恒例の温泉旅行で、今夏は『飛騨・高山で会いましょう』との合言葉で、その一日を過ごし、翌朝、高山から蛭ヶ野高原までドライブしました。私たちはここで一家と別れ、すぐ南に位置します郡上八幡を訪れるのが、かねてよりの予定でした。
 私たちが夫の定年を機に、かねがね興味を抱いていた大阪の川を訪ね歩いて、二年半がたちます。川のようすを私が文章に夫は写真にと、お互いに好きなことの二人三脚で記録しつづけております。この関係で、マスコミによく登場する御地、吉田川の清流のすばらしさには、憧憬の念を抱いていたのです。
 折しも八月上旬は御地名物の「郡上踊り」の最盛期のこととて、宿の予約をとるのに難渋しました。やむなく貴課に泣きついて確保して頂いたような次第でございました。
 ところで郡上八幡での夜、民宿で夕食も終えやれやれと一息ついたときでした。突然、夫が咳き込みはじめました。喘息の発作です。一瞬、目の前が真っ暗になりました。「大丈夫や、すぐおさまる」と夫は、私を心配させまいと強気でした。でも、私は「病院を探してくる」と部屋を出ました。即、救急車というのは夫の逆撫でになります。民宿の主人に尋ねると、近くに病院があるにはあるが、電話番号はわからないと言われます。
 夫の場合、病院があっても、万一のときのためにメモしていた「ソリターT3」「ネオフィリン」の点滴薬がなければ、何にもなりません。私は闇雲に夜の町へ飛び出しました。川探訪では、文章とカメラの視点が違って離れ離れになってしまい、よく喧嘩します。が、この喧嘩仲間をこの山中で失いたくない、と切羽詰った思いで一杯でした。
 やがてぼんやりした明かりの中に「新生会・八幡病院」がありました。たまたま居合わせた看護婦さんに「ソリターとネオフィリンがありますか?主人が喘息の発作で……」と私は唐突に叫びました。「同じのはありませんが似たものなら……」。彼女の答えは実に機敏でした。私は胸が熱くなりました。
 朗報をもって引き返していきますと、民宿近くの道端に人のうずくまる気配がします。よく見ると夫でした。私のあとを追っかけてきたが、それ以上歩けないでいたのです。再び病院へととってかえし車椅子を頼みました。
 それから二時間余の病院の対応は、旅人でトビコミの私たちでしたのに、実に気持ちよく適切そのものでした。気がついたら当日は日曜日、しかもそんな夜間です。夫を診察してくれた当直医は四十歳くらい、看護婦さんは長い髪の美しい方でした。ちなみに、そのときのカルテ番号は六九一〇です。
 嘘のように元気を取り戻した夫と、翌日は予定通りの観光をして帰路につきました。あの吉田川上流での、斜面をなす川床一杯を透き通るような清流が朝陽に光り、高らかな音を立てる光景が、今でも目に浮かびます。
 早速、この喜びをお手紙にと思いつつ、はや四か月も経ち、師走となりました。あれ以来、夫はやはり通院治療しておりましたが、最近では、前にもましての健康をとり戻せております。御地は山深い盆地にありますが、想像もつかないような活気のある城下町でした。そしてあの涌き水と清流。そこに育まれた人々。ソリター、ネオフィリンは当然のごとく常備されていたわけですが、その出会いは、不思議な縁としか思えません。
 私たちは淀川の岸辺に住んでいます。眼下の川面には、早くも北国からカモが群れをなして渡ってきました。その横の堤防でクラブを振る夫。まもなく平成四年は暮れようとしています。こんなありきたりなときの流れを、今ほど心に染みたことはありません。

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落としたお金、拾った自然

 決してお金に執着がないというわけではない。それどころか、人一倍執着が強いと思える御仁(ごじん)なのに、私の夫はよくお金をお落としになる。大蔵省の日本銀行券は、落としたら最後、すたこら歩き出して他人さまの元にいき、そこで、いくら私のモノだと言い張っても証拠になるものは何もありわしない。夫がこれまでに落とした状況を思い出してみると、その根本的な原因は、管理がおおざっぱなということになりそうだ。阿呆(あほう)な奴、そんな落としたことをいちいち女房に言う奴があるか、と、男性諸氏から夫は非難されそうだが、そこはそれ、何事も内緒にできないのが、わが愛すべき夫の性格というところか……。この間(と言っても昨秋のことになるが)も、夫が外出から慌てて帰ってきた。只今とも言わずに部屋に駆け込むや、上着やズボンをパタンパタン叩きはじめ、次にポケットの中身を全部ほうり出して、おかしい、やっぱり無い八千円が無い、と、のたもうた。また随分はんぱなお金を、どこで落としたんですか?と聞くと、そんなん分かっていたら誰も苦労せんわい、すーごく低気圧なので、それもご尤(もっと)もだと、しばらく傍観をきめこんでいた。
 やがて自分に納得させるようにつぶやいたのによると、あの店で一万円出して八千円の釣り銭を貰った。そのまま四つに折って、財布の入っているズボンのポケットにじかにねじこんだ。次の店の買物のとき、財布をとりだして支払った。ああ、くそー、あのときに八千円が勝手にとびだしやがったなあー。
 ざっとこんな調子である。落したものは仕方がないのにどうも諦めがわるい。八千円が八万円だって怪我をしたと思えば……と私は慰めにかかるが、お金ではない自分の迂闊(うかつ)さ加減に腹が立つんだとか何とか、悔しそうに言われる。それが又かわいそうでもあって、私は晩酌のアテを一、二品ふやしたりとか、機嫌をとるのに相つとめるのである。
 こんなことがあって半月後、いや一週間くらいだったか、東京の娘から電話がかかり、北海道観光から無事に帰ってきたが、向こうでお金を拾ったのよ、と付け加えて言った。この皮肉な偶然性に、私はほくそ笑まずにはおれなかった。娘の話はこういうことだ。
 知床半島の根っこの部分にある斜里という町へやってきた。すぐの北面は視界一杯にひろがる網走湾、その奥はオホーツク海へとつながっている。この雄大な海原に注ぐ斜里川のほとりに佇む(たたずむ)と、そのときを盛りに鮭の大群が遡上していた。産卵のための涙ぐましい姿に、観光客は誰もが魅せられている。娘たちはこの鮭を追っかけようと、堤防を上手へと歩きだした。まもなく、一緒に歩く孫娘が、これ拾ったと母親(私の娘のこと)にさしだしたモノがある。それは紛れもなく福沢諭吉の一万円札。同じように歩く誰かが落としたに違いないが、鮭に夢中になって振り返る人もない。交番に届けようかと思ったが、結局、遡上する鮭のお恵みと、頂くことにしたという。
 さて、また斜里の町中に戻ってみて珍しいことを耳にした。この斜里よりずっと奥にあるウトロの山の植林を、百㎡あたり八千円でオーナー募集しているという。近ごろの乱開発を防ぎ自然環境を守るための、立ち木トラスト運動の類いであろう。斜里町役場が受け持ち、すでに三万何千人かのオーナーがいるそうだ。娘は拾ったお金で、この植林を一口買ったのだと高らかに自慢した。
 これを聞いた夫は、うちの女どもはがめつい。ばあさん(私のこと)から孫まで血統書付やなあと、軽蔑の眼で言った。分かってる、花より団子なのである。なんと罵(ののし)られようと、ここは一つ北海道旅行を兼ねて、オーナー然とウトロの山に行ってこなければなるまい。夫の落とした八千円が北海道の自然で返ってくるなんて、こんな妙味があるから、やっぱり人間業はやめられないと思った。

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ご招待にはご招待を

  九月初旬のこと。晩酌でほろ酔い機嫌の夫は、掛かってきた娘からの電話のことで、ぼやきはじめたのです。
 馬鹿にしとる、誰がおじいちゃんやねん。あんたはおばあちゃんに間違いないけど、ぼくは、まだ六十云歳の壮春真っ只中。敬老の日に保育園で『おじいちゃんおばあちゃん、ありがとうパーティー』があるから来いやなんて。何が悲しうて東京くんだりまで行かんならん。子供が遊戯と太鼓叩きで出るからぜひになんて親馬鹿もええとこ。ちょっと梅田から天王寺までとは訳が違うんやで……。
 という風に大変な鼻息なんです。ですが、どうもうちの殿方は現実的で夢がございません。私のほうはついてに話題の新都庁舎にも行けるとほくそ笑むのですが、入り込む隙もないくらいの権幕でぼやきはつづきます。
 一体、交通費と労力と時間はどうなるんや。あんたと二人エコノミー切符で往復四万数千円かけて東京駅へ、それから山手線に乗って西武池袋線に乗って満員バスに乗ってしめて五時間。すぐ隣は埼玉県やないか。ああ、不便不便。何であんな辺地に嫁にやった、あのときあんたが娘の肩を持ったからこんなことになったんや。東京へなんか行くもんか。
ところで夫は定年後から陶芸を習ってまして、歪なのから斑なのからぐい呑みから花瓶の類まで、うさぎ小屋のわが家に鎮座まします有様。あのぼやきから二・三日後のことでした。夫は大きな一つの壷を抱えて帰り、これぞかつてない傑作品、先生も褒めて下さった、来る十五日の文化祭に出品するぞと大変なご機嫌。ここで夫はひざをポンと叩き、さあ娘に見せたい招待するんだと受話器を握りました。即、娘は断ったというのです。なのに清々とした顔付きで負け惜しみを言いました。この間の仕返しをしてやった!と。
 この父娘の確執たるや。この不完全子離れの親にしてこの不完全親離れの娘あり、ああやるまじきは娘を転勤族にという事か。

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釣書の字

 定年を迎えた私の夫は、これからの生きがいを求めて模索中です。その夫が先日、『習字をならいに行く!』と言い出したものですから、思わず噴き出し、うろたえました。
 夫は毛筆・硬筆ともに字を書かないできました。そう、書けないのではなく書かないだけです。今どきそんな人、いるの?と言われそうですね。だけど、夫は過去から現在に至るも、恐らく未来にかけても永遠に、私を妻にしている限りは書かないでしょうよ。それには、こんな暗黙の了解があるからです。
 二人はごく普通のお見合結婚でした。最初に「釣書」なるものをお渡ししましたが、彼からはまいりませんでした。さては、男性の横暴!と不満でしたが、何分、封建制のなごりをとどめる昭和三十年初期のこと。結局、彼については仲人口を信じてお見合を、三ヵ月後には結婚というスピードぶり。
 ところで、新婚まもなく夫が白状したのによりますと、私の渡した釣書の毛筆の字を見た途端「これにしよう」と決めていたんですって!。決して私の字がうまいとは思いません。きっと彼自身よりマシだったに過ぎないのですよ。妻たる者を選ぶのに、美貌とか気立てとか優しさとか……あるでしょう。それを字で選ぶなんて、やっぱり物好き!。
 とは言え、その物好きのお陰で、私は妻の座にありつけたのです。ひたすら夫の書記役を務めてまいりました。年賀状や電話のない時代は親戚、友人への書簡など。夫の仕事は技術系です。さりとて、書くことは避けて通れません。今だから言えることに、簡単な図面から出庫伝票や作業日報(一日遅れに提出)、課員の勤務評定など、さまざまでした。
 せっかくの『習字を……』ですが思い止まって頂きます。だって、もしも熟達されようものなら私は妻の座から失業です。一九九〇年は国連『識字年』。それを逆なでするような夫で、わが家の平衡が保たれているのです。

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麦畑の香り

  「もう自転車に乗るな」。私の夫の口癖です。氾濫する車、蜂の巣をつついたような違法駐輪。体の為にも歩けと言うのです。そりゃ私にだって分かります。だからといってその後のセリフが気に入りません。あんたは年、幾つやねん。六十にも近うなって。第一、乗ってる姿は、あれなんや。危なっかしゅうて見てられへん。大きなお世話なんですよ。
 思えば昭和二十一年、終戦のどさくさと何もかも貧しい中で、十二歳の私は小さな希望の星を見つけたのです。瀬戸の海に沿って入浜式の塩田が、反対側には、SLの煙を吐く四国山脈の麓まで青々とした麦畑が広がって見えます。その中央を凸凹な県道が走ります。バスが砂埃をあげ、肥たごを積んだ牛・馬車がガタゴトと通り過ぎます。こんな光景の中で、私は自転車乗りに挑戦したのです。大人用の自転車にチビの私では、いわゆる三角乗りしか出来ません。乗ってもすぐ疲れます。乗っては歩き、歩いては乗るの繰り返し。村人がくすくす笑って振り向きます。
 ある日の事。三角乗りで一気に風を切りました。走る、走る、天にも上ぼる心地でしたのに、にゅっと荷車の馬さんと鉢合わせ。あっと叫んだ途端、気がついたら自転車もろとも麦畑に。葉っぱや茎をなぎ倒し、まるでキッスをした形で私は転がっていました。漂う自然の香りに酔いました。それ以来です。自転車の腕がめきめき上がったのは……。
 その年入った女学校では、茶の湯、礼法で楚々とした身嗜みを教わりました。でも、うちに帰ると性懲りもなく自転車にまたがっていました。学生改革とやらで高校に転校してからは自転車通学。もう得意の絶頂です。田圃の畦を近道します。雨の日、左手にハンドル右手に破れ傘、ひどい泥濘(ぬかるみ)をサーカスの曲芸さながらです。あれから四十年。お願いだから「自転車をおりろ」なんて、野暮なことは言わないで。麦畑にキッスしたあの香りが今も甦るのです。

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保険嫌い

 病気になんかなるもんか。入院やなんてとんでもない。俺の亡きあと? そんなの知ったこっちゃない。まことに鼻っ端が強く、無邪気な心意気だが、これが、若い頃からの夫の健康哲学? である。こんな煩悩を逆なでするように、生命保険というものがあるようだ。えてして、夫のようなものを誘惑したがる。追っかけられたら逃げたくなる心理は、恋の道に似ている。夫は生理的に保険を嫌った。恐らく、いやな相手以上にではなかろうか。
 三十余年前、長女が生まれた。どこから聞きだすのか、保険会社や郵便局が勧誘にくる。産後まもない私の脳裏に、やみくもに路頭に迷う母娘の絵図が去来した。夫の機嫌のいいときを見計らって頼んだが、頑として首を立てに振らない。次女が生まれた時も同じだった。
 石油ショックの頃だった。夫が曇った顔つきで帰宅して、「Iくんが亡くなった」とぽつりともらした。夫の仕事は、会社の機械整備。この整備課に一年ほど前、Iくんが転属してきた。その頃の写真には、純朴そうな三十歳代、小柄で人なつっこい大きな目をした青年像で映っている。この青年、整備では不向きであることが分かってきた。修理はおろか、機械部品一つ作れない。教えても飲み込みがわるいと、夫がこぼしていた。
 ところが人間というのは、天性というか、処世術をもっているものだ。青年は、ある日から人より一時間も早く出社してくるようになった。几帳面な清掃に整理整頓。夏場の冷えた麦茶作り。誰もが敬遠する油だらけのゴミを、ドラム缶で焼却する。雑用を尻軽に動く。たちまち、みんなの人気者になった。
 ある冷え込みのきつい日。青年がいつものように、ドラム缶にゴミをくべていた。何げなく、自分の背を暖めようとした途端、炎が油汚れの作業服に燃えうつった。ときならぬ悲鳴でみんなが駆けつけたときは、青年は火達磨。この惨たらしさ。その夜、夫は身震いし涙さえ見せて語っていた。ICUでの手当ての日々が続いた。しかし、青年はついに帰ってこなかったというのだ。
 朋友を亡くし、会社や基準局から責任を問われ、夫は疲労困憊(こんぱい)した。その中でも、遺された奥さんと二人の子供さんを慰めようと、躍起となった。
 四十九日の法要が終わった頃、こんな噂が伝わってきた。奥さんが四LDKのマンションを買い、今後の生活も事欠かない。なんでも多額の保険金が入ったそうだ。多くのやじ馬から、やっかみとも羨望ともつかない呻きがもれた。「あいつ、死んで花実を咲かせよった」。青年を冒涜(ぼうとく)する言いかたをした。当時のマンションも高嶺の花。買ってもローンで悪戦苦闘していた。「自分は一体、家族に何が遺せるのだ。」悲しい決心で、あの人もこの人も団体保険に加入したのは、この時である。わが夫も御多分に漏れない。「保険に入ったぞ」。まるで保険金が入ったように、私にえばってみせた。神様のお恵みでそれから定年までの十年余、夫は無事にすごせた。それっきり、保険は消滅したままだった。
 退職後二年目のこの春、夫が入院する破目になった。入院費は、情け容赦なくわが家計を直撃する。しかし、これからが私たちの正念場だと心に決めた。夫は退院してきた。私はほっとした。
 最近、郵便局が勧誘にやってきた。今度は私のために、今はやりの入院保障付きとやらを買っておきたい。夫に相談して、私は終身保険というのに入った。ところが一夜にして、どんでん返しがきた。夫はその極限を連想したのだ。真新しい私の位牌の前で「チン チン」と、鐘を鳴らす。台の上には札束が鎮座する。「ふざけるな!」。翌朝、夫は「即、解約だ」と言った。「馬鹿にしないで」と私は叫んだが、無駄な抵抗だった。
 満面笑みだった局員の顔が浮かんでくる。私と同年輩なのに、老いた母と、そうだ、中学生もいると言った。その夜、私は眠れなかった。

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墓地

 外出から帰ってきた私が、たまたま家にいた夫に、どこからも電話が懸かってこなかった? と聞いたら、懸かってきたと答えた。それも一件だけ、大津霊園とやらが墓地の大売り出しで、要らないかというそうだ。
「なにー、墓地! 要らん。ガチャン」と、受話器をきったという。いまいましげな様子に、無骨な夫にかけたセールス嬢こそ災難である。ともあれ、夫のこの立腹は、墓地に対するかなり感情的なものだが、夫婦婦随の私にも分からないこともない。
 工場で働く村田さんと夫とは、四十年来の技術者仲間である。一口に四十年といっても山あり谷ありを助けあってきた仲だ。正月には一年交替で自宅に宴をもちあい、仕事上の鬱憤をはらし、新年への鋭気を養ってきた。
 その村田さんが、一年ほど前から体調が悪いともらしていたが、この5月末、思いきって検査入院した。六月二十六日、胃カメラ検査の最中だった。村田さんは急に血圧低下、意識不明になり、急逝されてしまうという、不幸な結果になった。ご家族は悲嘆にくれ、工場の仲間たちは唖然としてしまった。
 生前の話では、村田さんは町中にある寺院墓地を、大枚を払って買っていた。次男坊である自分一家のためにである。その上、その寺の落慶法要で応分のお供えをしたら、戒名を頂いたそうだ。墓地を買い、戒名までつけてもらって、逝き急いだ村田さんを思って、夫は口惜し涙にくれた。村田さんは六十歳。まだまだこれからなのに。心からご冥福を祈るばかりだ。
 古くは聖徳太子が、生前に自分の墓を立て、墓石に朱色で法名を刻んだといわれる。これを逆修(ぎゃくしゅ)と呼ぶ。日本書紀にこう記されている。

望むらくは死(みま)かりて後、人を労(いた)わらしむること勿(な)けむ

 聖徳太子のみならず、時代の権力者たちは、生存中にその偉大さを誇示した。秦の始皇帝が驪山(りさん)の麓に巨大な自身の陵を、仁徳天皇は堺市に仁徳陵などを築きあげている。
 庶民が「○○家の墓」をもつようになったのは、江戸末期ごろからという。核家族化した現在、墓地の需要は多くなり、供給者が増えるのも当然だが、それだけみんなの生活が豊かになったとも言えよう。
 村田さんが生前に墓地を買ったことは、ごく自然な仏教的信仰のあらわれだ。子供に負担をかけまい。ひいては、安らかな老後をと願ったに違いない。その意味では同調したい。しかし、墓地とてお安くない。余裕のない者は、そこまで、とてもじゃないが回らない。信仰心が薄いと、なおさら無理である。
 こんなグループの話がある。なんらかの事情で独身をとおしている女性たちが、共同で京都の嵯峨野にお墓を立てた。彼女らには弔う者がいない。みんなでお参りして、惜しみあいましょうというのが趣旨だそうだ。十年たったいま、会員の輪も広がっている。ちなみに、団体割引で二万円、それ以上は自由意志の納骨代で済む。ユニークな実践だ。
 天王寺の一心寺では、奉納された人骨で、十年に一体の仏像を作るという。縁日に、参詣する老若男女のひきもきらないさまは、いかにも、みんなで守ってもらえる都会的なありようかも知れない。
 ある調査によると、先祖や親の墓は別として、自分自身の墓は、どちらでもよい、なくてもよい、とする者が四割いるという。どちらかというと、私たち夫婦はこの部類に入るのかもしれない。うちは娘二人。婚家先の先祖をお守りする上に、実家の墓の管理まで押しつけるのは、酷な気がしてならない。年のせいだろうか。このたびの村田さんのご不幸で、やみくもに私たちのゆくえが気になってきた。
 これを、転勤族に嫁いでいる長女に、謎かけて話してみたら、頼もしい言葉が返ってきた。「両親のことは、わたくしがちゃーんとします。心配は一切無用」。慰められているような、励まされているような、それでいて、変ーな気持ちに私はなった。

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張り子の虎じゃない  (闘病日記より)

 きのうは、夫が泊まってくれる晩なのに、七時のはずが、九時がすぎても来てくれない。時計のカチカチが気になって、個室でひとりじりじり待つ身は、やり切れない。
 やがて、ペタッペタッと夫独特のつっかけの足音が、静まりかえった廊下から響いてくる。私はあわてて、うちわで、顔を隠して、むくれてみる。「やあ、ごめん。色々あってね」と、夫の声がしたときは、布団をかぶって狸寝入りをきめこんでいる。でもやっぱり心が弾んで、パッと笑顔を覗かせる。
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かちわれで、氷枕を高くしてくれる。気持ちいいやろと私のおでこをポンと叩く。冷やしたタオルを、マウンドのピッチャー然と、おでこめがけてストライクと投げつける。なじる私に、文句を言うなと、ポン。汗だくの体を拭いてよに、注文ばかりつけやがってと、ポン。なんでもかんでも、鬱憤(うっぷん)はらすように、私のおでこをポンと叩く。
 きょうは、夫の番じゃないのに、会社がひけて直行でやってくる。腹がへってぶっ倒れそうだと言いながら。途中、阪急で買った栗、かき氷、クッキー。朝、家から持ってでた、かゆみ止めのムヒに、私のお気に入りのタオルケットを抱えこみ、汗をびっしょりかいている。どれもこれも欲しいものばかりやろといつものように、ポンと叩く。
 好きな栗をたらふく食べて、はよう栗のように強く元気になれよと、おでこをポン。私を泣かせるこんたんですか。にわかな優しさは、反射的な涙になって、しょっぱい涙は、口腔に戻っていく。本当は、ドジで、じゃじゃ馬がと、手間のかかる厄介者めがと思っているのでしょう。仏心で、しょうこと無しに、寝たきりなのを不憫(ふびん)がって……と、追打ちかけて、憎まれ口ざんまい。両の足で歩けるならば、どこにでも消えてなくなるわと、からいばりの私に、夫は一層強く、好きなようにしやがれと、ポン。私は張り子の虎じゃない。

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