川辺の船宿を訪ねて (1)「鍵屋」とくらわんか舟

   “三十石船『復活』”≪江戸時代旅人気分≫
  枚方市企画(二〇〇六、九、三十付朝日新聞)
 この記事に触発されて、私は急に枚方へ行きたくなった。京阪本線「枚方公園」駅下車。北へ五分ほどの旧「京街道」沿いに、往時の船宿「鍵屋」が資料館として残っていることを、知人から教えられてもいたからだ。
 古風で頑丈な構えの木造、瓦葺きは、「鍵屋」の主家(しゅおく)だろうか。大屋根から顔をだす「煙出し」(煙突)。重厚な柱や玄関板戸、格子の出窓。行灯。カギの絵を染め抜いた暖簾など、老舗の貫禄を充分、備えている。
 主屋の裏側に、別館らしい二棟が並ぶ。その更なる奥手には、近年にできたであろう淀川の堤防が、屏風のように立ち塞がっている。昔日の別館は、直接、川辺に繋がっていたに違いない。と、このように、表玄関は「京街道」、裏口は淀川に臨むという、船の乗船に最適な船宿の輪郭が見えてくる。
 別館の片一方から入館する。迷路のような廊下に面して、床間や床脇棚を備えた小部屋が、幾つも連なっている。どれくらいあるのか見当も付かない。調理場や蔵、植込みなどもある。かなり大きな旅籠のようだ。
 枚方は、大坂八軒家と京都伏見の間を往来した、淀川三十石船の中継地である。枚方宿にはこんな旅籠が、約七十軒もあったそうだ。
  鍵屋浦には碇がいらぬ
   三味や太鼓で船とめる
「鍵屋」を目の当たりにしていると、乗降や休憩・食事をとる庶民の歓楽が、嬌声や三味の音とともに伝わってきそうだ。
 こんな船宿と肩を並べて繁昌したのが、「くらわんか舟」であろう。館内の地下室らしきところに、その模型が展示されている。枚方浜に近づいた三十石船の乗客に、「飯くらわんか、酒くらわんか、ごんぼ汁くらわんか」と、口ぎたなく酒や料理を売りつけた小舟だ。
 通りがかりの館員が、「くらわんか舟の営業権は、もともと大坂夏の陣で徳川方に協力した功により、摂津国柱本(高槻)の舟に与えられたものです。が、いつしか枚方へ拠点が移ったんですよ。」と、教えてくれる。
 私は、『石松三十石船』の浪曲を、父からよく聞かされた。森の石松は、讃岐の金比羅参りをすませた後、八軒屋から三十石船で京都見物に向かった。「江戸っ子だってねぇ」「神田の生まれよ」「鮨、食いねぇ」。清水一家で強いのは誰?  ついに自分の名前が出てきて喜んだ石松。この枚方あたりのくらわんか舟から酒や鮨を買い求め、くだんの江戸っ子に大判振舞をしたのだろう。
 くらわんか舟で使われた「くらわんか茶碗」が、三十点余りも並ぶコーナーに出合う。十把一からげで、雑などんぶり鉢かと思いきや、鳥や草花などを絵付けした、なかなか、どうして、趣のある磁器だ。形も大皿、茶碗、壷等さまざまで、欠けたのも胸を張って並んでいる。
 何より私を驚かせたのは、この茶碗たちが現代へ出現したそのルートだ。三十石船が停泊したこの辺りの川底から、拾いあげられたとある。安治川(旧淀川)の川底から姿をあらわして、大坂城用の巨岩が成れの果てとなった、かの「残念石」。「くらわんか茶碗」よ,お前もか……。まこと、わが愛する淀川は、ロマンに満ち溢れている。
 当時、食べた茶碗の数で食事の料金を精算していたというから、今の回転すし屋商法に似ている。ところが、不逞のヤカラが金をごまかすため、茶碗を川にこっそり捨てていた。今更、不逞の連中に請求もできまい。あの石松に疑いの矛先を向けたならば、「おら、そんなケチな真似はしねぇ」と、激怒されそうだ。実際、くらわん舟は、鷹揚な商売をしたものだ。が、目こぼし分をさっ引いても、なお余りある収益を挙げていたのだろう。
 三十石船にまつわる船宿とくらわんか舟の賑わいは、一八八〇(明治十三)年、鉄道の開通とともに衰退していく……。「鍵屋」は、≪江戸時代旅人気分≫を、私に彷彿と蘇らせてくれた。いつの日か、平成の三十石船にも乗ってみたいと思う。

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川辺の船宿を訪ねて (2)伏見港から「寺田屋」へ

 船宿「鍵屋」で、勝手な想像をめぐらせた私は、その朝やってきた京阪本線「枚方公園」駅までもどってくる。駅の時計は正午を指している。近くのレストランで軽食をとりながら、ここから京都伏見へも、足を伸ばしてみよと思い立った。さらに淀川水運のロマンを追っかけるのも、楽しいのではなかろうかと……。駅員に訊ねたら、伏見へは「中書島(ちゅうしょじま)」駅で下車すればいいと、教えてくれる。
 電車が枚方の街を出外れると、牧歌的な佇まいの木津川、宇治川に出合う。二つの川を横切り十分ほど行くと、「中書島」駅到着。駅から住宅地をぬけて南西に四百mほど歩く。と、いつの間にか、宇治川を見下ろせる港の一段と高い堤防上に、私は佇んでいた。
 港の名は、淀川の三川合流地点よりすこし上手、宇治川の右岸の門戸をひらく「伏見港」。江戸時代の三十石船が、大坂八軒屋とを頻繁に往復した、京側の玄関港である。
 九月の下旬。渇水期のせいだろうか、岸辺の葦原に囲まれた宇治川は、川幅せまく蛇行しながら流れていく。川の表情は都市型のそれとは異なり、陽の光をうけてキラキラした輝きを見せる。みごとな清流だ。とはいえ、船の姿は見るべくもない。残念ながら三十石船のイメージなど、とうてい湧いてはこない。
 港に二つの真新しい閘門(こうもん)がそそり立つ。伏見港内と宇治川の水を調節する「三栖(みす)閘門」とある。橋脚を思わせるような、ドでかい直方体のコンクリート門柱。真っ赤な遮断壁。周辺の自然とは、何とも不釣り合いだ。残暑の名残とどめる中、枚方の「鍵屋」から足を伸ばしてやってきた私には、期待外れの感がぬぐえない。
 ふと、堤防下にある鮮明な案内板に、目が止まる。閘門から陸地側をコの字型に、「濠川(ごうかわ)」という川が分流している。ちょうど大阪の土佐堀川から分かれて、同じ下流へとつながる東横堀川・道頓堀川・(元)西横堀川の地勢に、よく似ている。
 その「濠川」を、現代版の観光船・十石船が往来するらしい。川辺のひとつ南浜に、船宿「寺田屋」のマークが光っている。何、なに?「寺田屋」といえば、歴史的に知られた「寺田屋騒動」の舞台である筈だ。この「濠川」沿いあったとは、迂闊(うかつ)にもしらなかった。俄然、私に元気が湧いてきた。いざ「寺田屋」へ!足取りも軽やかに、「濠川」沿いを北へと歩きはじめていた。
 川幅は何mくらいだろうか。それほど広くない。が、豊富な水量で川がみなぎっている。川面すれすれをのびる石畳の遊歩道。まさにウオーターフロントそのものだ。プンプン臭う夏草。「チンチロリン」と鳴く松虫。いかにも、江戸の昔からそうであったかのような自然に、満ち溢れている。
 途中から川には東に折れて「出会い橋」がある。北からの流れが合流するので、この名が付けられたのか。等間隔に息づく大木のシダレヤナギが、川面にゆらゆらと影を投げかけている。川に張り出たコンクリートの旧船着場。まるで時代劇にある京の町そのものだ。
 まもなく南浜にやってきた。ここも船付場が残されている。はやる気持ちで浜から石段を駆け上がると、欄干の御影石に白抜きされて「きょうはし」がある。橋を渡って東へ五十mもいくと、「寺田屋」(京都市伏見区南浜町)にご対面である。
 いかにも古風な構えの木造・瓦葺き二階建である。「鍵屋」に比べると規模はやや小さいが、格子の出窓、簾(すだれ)、提灯など、旅籠としての体裁は酷似している。なにより行灯に描かれた『史跡・寺田屋』には、歴史的な重みが感じられる。
 表玄関の脇にある<伏見寺田屋殉難九烈士之碑>に見入っていたら、とつぜん人の気配がする。ふりむくと、二十人余りの観光客を引率して、六十歳代くらいのベレー帽をかぶる男性が近寄ってきた。私は厚かましく観光客の中に潜り込ませてもらうことにしよう。
「みなさん、ここが『寺田屋』です。一八六二年四月二三日の夜明け。討幕の挙兵を計画する薩摩藩・急進派に対して、それを鎮めなだめようとした温和派との内部抗争がありましてね。この石碑には、犠牲となった有馬新七ら急進派九名の御霊が、まつられています」
 ベレー帽氏はかなり歴史に精通され、手慣れた話しぶりだ。「寺田屋騒動」における尊攘派と公武(こうぶ)合体(がったい)派の対立を、分かりやすく説明しているようである。
 私の中の未熟な歴史によると――、一八六二年といえば、その九年前(五三年)には、アメリカのペりーが浦賀に来航。翌年、ペりーと幕府は、日米和親条約を結んでいる。さらに五八年六月、井伊直弼大老は勅許を得ないまま、日米修好通商条約に調印。そのほか日蘭修好通商条約、日英修好通商条約、日仏修好通商条約など、いっきょに開国の波が押し寄せている。
 鎖国がモットーの江戸時代に、天皇を尊崇し外国を排斥しようとする、尊攘派の動きがあったことは頷(うなず)けないこともない。やがて彼らは、討幕運動を展開していくのだが……。「寺田屋騒動」は、明治維新の夜明け前におきた、いしずえ的なうねりの一つであろう。
 観光客には、Tシャツ・ジーパン姿の若者が多い。それもカップルらしいのが目立つ。彼らは何に引かれて、ここへやってきたのだろうか。そんな野暮なことを考えながら「寺田屋」へ入館する。帳場、台所、配膳場、風呂場、洗面所等など。それらの一面に、こじんまりとした和室があり、ベレー帽氏は説明する。
「『寺田屋』は薩摩藩の定宿でしたが、ここは女将・お登勢さんの部屋です。義侠心が強く、多くの志士たちを助け、無料で泊めることも多かったようです」
 時代が変遷したとはいえ、プライベートな個室に、多勢が土足のまま踏み込むとは……。お登勢さんが嘆いてはいまいか。何だか気が咎めてならない。
 二階に上がると、間仕切りされた小部屋が並ぶ。「梅ノ間」以外の五部屋は、今も、予約制だが泊まれるそうだ。「梅ノ間」は、薩摩藩の紹介で、坂本龍馬が愛用したという。床の間に飾られた二刀の長剣と、龍馬像の掛軸。オールバックの髪、太い眉毛、真一文字にむすんだ口、いかにも江戸の風雲児然としている。
 坂本龍馬。生年・一八三五年。土佐藩士を脱藩して勝海舟に師事し、尊攘派から開国派に傾いた人物である。六六年、薩長連合を成立させた話は、周知のことだろう。(六八年、同連合の新政府軍と旧幕府軍は、鳥羽・伏見の戦い「戊辰戦争」を起こした)。幕府側からはとかくマークされていたようだ。同年一月二三日、「梅ノ間」に泊まっていた彼は、幕吏の襲撃をうけたのである。
 その模様をベレー帽氏は、熱っぽくしゃべる。
「そのとき龍馬は、長州藩士と酒を酌み交わしていたんです。そこへ百名くらいの捕方が「寺田屋」を包囲、襲撃してきた。たまたま湯に入っていたお登勢さんの養女お龍さんが、捕方に気づき裸のまま階段を駆け上がり龍馬に知らせた。彼はケガを負いながらも、屋根を伝って飛び降り、裏の家を通りぬけて逃れたんです」
 もともとお龍と龍馬は恋仲だった。「濠川」沿いを薩摩藩邸まで、いっしょに逃げたという。
 このスリリングな場面に、観光客の若者たちは共感覚えるだろうか。緊張の面持ちで聞き入っている。
 そのときの傷が回復するとすぐ、龍馬は海路を鹿児島へ向かった。もちろんお龍も同船する。二人にとって幸せ一杯の新婚旅行となった。
 枚方の「鍵屋」から水路ならぬ陸路で、伏見の港を訪ねた私は、図らずも、船宿「寺田屋」に出会うことができた。そして、『史跡・寺田屋』は、今こうして、幕末動乱期における人間・坂本龍馬の生きざまやロマンスを、くっきり浮き彫りにしてくれたのである。
 もろもろの感慨にひたっていたら、ベレー帽氏と観光客は、いつの間にか水が引いたように姿を消してしまっている。私はふたたび「きょうはし」のたもとから、川辺に降りてみた。折りも折、「濠川」を観光船・十石船が客を乗せて川面を滑っていく。私がそこに、龍馬とお龍の姿をオーバーラップさせるのは、当然の成り行き(感情)というものではあるまいか。
 海路を鹿児島まで新婚旅行にでかけた二人は、この南浜より三十石船に乗り、お登勢さんに陰ながら見送られて出立。そして伏見の港から、宇治川をくだって西へ。桂川・木津川との合流点からは、淀川は本流に乗って南西に走り、中継地の枚方浜では、「くらわんか舟」の飲食を楽しみ、毛馬の閘門から八軒屋に到着しただろう。
 大坂での乗り継ぎはどんな船?薩摩藩差し回しの漁船ででもあったのか。瀬戸内海を西へとひた走りに走り、やがて豊後水道を南下。薩摩へは、錦江湾から桜島を仰ぎながら入ったのだろう。のどやかで、くつろぎのある空間、船旅。二人は悠遠の未来を語り合ったに違いない。
 その翌年一八六七年十一月。京の旅籠・近江屋で幕府見廻り組に襲われ命を落とすことになろうとは、豪気の龍馬に、どうして、このとき予測できたであろうか。

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濃霧の朝に

 そのとき私は、体に差すような冷気を感じ、無意識に掛け布団をひきよせて、目を覚ます。時計の針は七時を指すのに、あたりはいつになく暗い。よろけるように起き上がり、二重窓の障子をあけた私は、「あっ」と驚きの声をあげる。ガラス戸の外は、一寸先も見通せない濃霧である。
 いつもの泰然とした新淀川や対岸の家並みも、上手にある筈の長柄橋も、それらを映し出す日のひかりも、かき消されてすべて見境もなく灰色に霞む。天地を丸のみしたこの自然変異に、高層ビルの一室にたたずむ私は、ポツンと幻想の世界に迷い込んだようだ。
 窓の下をのぞいてみる。黒くぼやけて形するものがかすかに見える。冬枯れの樹木と、土手沿いに走る車の連なりのようだ。
 樹々は波にゆれる珊瑚を、車はその間をぬってヒラヒラ泳ぐ魚を想わせ、濃い霧は、神秘的な海底の深淵を醸し出している。
 ふと北の方を見上げる。霧のかなたから気配がする。八頭のトナカイに引かせた橇(そり)に乗った、サンタク・ローズが見えてくる。赤ずきんに赤い服をまとい、長靴を履き、おもちゃを詰めた袋を背負ってやってくる。
 符丁を合わせたように東のほうから、幼児がころがるように駆けてくる。
「オバアチャン」と呼んでいる男の子と女の子、私の珠玉の孫たちだ。
 あと一息で私の胸にとびこめるというのに、彼らは冷たく向きを変え、サンタのおじいさんに近寄っていく。クリスマスのプレゼントをねだる。寝ている間に煙突から入ってくる、おじいさんを先取りして……。
 サンタのおじいさん、お願いよ。
 ほっぺを真っ赤にして遊んだ孫たちに、あしたへの限りない夢を一杯いっぱいあげてね。いい子だったから、束ねた木の小枝は、ゆめゆめ上げないで。
 サンタ・クローズと孫の出会いの幻想は、私をふと我に返らせる。あしたの晩はクリスマス・イブ。濃霧のきょう、新幹線で孫たちが、東京から大阪へ里帰りしてくる。

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ある日の淀川

   朝明けにひき船が、ポッポッポッ・・・とエンジン音を響かせて通っていく。砕石を積み込んだ運搬船を二隻従えて、胸を張って軽々と上流をいく。河のほとりの人間どもに、早くエンジンをかけさないといわんばかりに。
  午後、ひき船が帰っていく。あの運搬船をつれ、仕事を終えた満足感にみちあふれている。船尾に男が二、三人立っている。はしけ乗りだった父を思って、大きく何度も手をふってみた。
  真っ昼間だというのに、淀川中流も対岸のビル群も、遠くにたたずむ北摂の山々も、みるみるうちに灰色に変わる。わずかに、左の六甲山のふもとあたりに、にぶい日のひかりを漂わせて、やがて一帯は濃い霧に包まれてしまう。ガラガラ ゴオー、雷が山の向こうでうなった途端、糸のような雨が降り、激しさを増し、スコールに変わる。無数の太い雨は垂直に、川面めがけて、すごい勢いでぶつかっていく。にわかのスコール到来で、樹々にさえずった小鳥たちは、じっとなりをひそめている。
  夕暮れの川面のたたずまいは、うそのように静寂な白光色をしている。河川敷に生える深緑の葦、雲ひとつなく広がる薄青の空、西の空を色どる茜色が、白光色の川面に映え染めて、歓喜のパノラマをつくりだしている。
  夜、対岸のビルというビルに、赤、黄、青の色したネオンが輝き、暗い川面をうつしだしている。地球の向こう側に、お日さまを送り込んでから、河は昼間の光を失っている。無気味な漂いの中で、ネオンはわがもの顔にひかり、不夜城のように輝いている。大河のほとりに住む者どもに“百万ドルの夜景”だと、おおげさな、喜びを与えてくれるかのように……。

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