蘇我の娘たちの悲哀
奈良明日香村の甘樫丘(あまかしのおか)の麓に、蘇我入鹿(そがのいるか)邸の可能性が高い遺構がみつかったと、朝日新聞(二〇〇五、十一月十四日付)に載っていた。
多くの考古学者や歴史ファンを興奮させたとある。日本書紀の大化の改新を裏付ける、有力な「物証」になるかもしれないからだ。
蘇我氏といえば、古代飛鳥の大化改新(六四五)のクーデター「乙己の変(いつしのへん)」で滅亡してしまった権力者である。
私は高校のとき日本史で、この時代のことを学んでいた筈なのに、殆ど忘れてしまっている。さっそく歴史書や辞典類と首っぴきで、蘇我家のルーツを訪ねることになった。その中で蘇我の娘たちの浮沈が、なぜか哀しいものに思えてくるのだった。
蘇我氏の興亡は、稲目(いなめ)、馬子、蝦夷(えみし)、入鹿、の四代にわたる。入鹿のひいじじにあたる稲目は、元・大和国高市郡曾我を本拠とする豪族である。二十八代宣化天皇時代(在位五三五~五三九)は、大臣になるほどの才物でもあった。驚くべきことは、娘の堅塩媛(きたしひめ)と小姉君(おあねのきみ)を同じ欽明天皇に嫁がせるという、人道にはずれたアコギなやり方で天皇家と外戚関係を結んでいる。
堅塩媛は用明、推古の二天皇を、また小姉君には崇峻天皇を授かった。天皇の母となりえた二人は、まだ幸せといえようか。「親の七光」でむすこの馬子、まごの蝦夷は、ストレートに大臣の出世コースを歩んでいる。
こうして稲目は、ひまごの入鹿が暗殺されるまでの、百年余りにわたる蘇我家の、ゆるぎなき繁栄のいしずえを築いたことになる。
さて二代目馬子には、蝦夷のほかに刀自古郎女(とじこのいらつめ)、法提郎女(ほほていのいらつめ)という娘がいた。この娘たちこそ先の叔母君の堅塩媛、小姉君にくらべて、なんと悲運であったことだろうと思えてならない。
カネと力で朝廷を牛耳り、ときの政治もほしいままの蘇我大臣家で、蝶よ花よと育てられた、いわばイトさんコイさんたち。美しく着飾ってお稽古ごと三昧。年頃ともなると「娘一人に婿八人」の筈なのに……。こともあろうに旧弊な叔母君と同じ道をえらんで、天皇家と縁組している。親の権力、命令にぜったい服従あるのみだったのだろうか。「いくら天皇の親戚筋とはいえ、あの太子って、タイプ(女好き)じゃないわ」「あんなオジン臭い天皇なんて、いやよ」と、自己主張できない女の哀しさ。仮に姉は官人の御曹司を選んだとしよう。妹は、幼なじみで気心の知れた豪農の伜(せがれ)であってもよかったのに。
刀自古郎女がえらんだお相手は、推古天皇(女帝)の摂政のほまれが高い、聖徳太子である。内外の学問に通じ、深く仏教に帰依し、十七条憲法を作るなど、政治家としては超手腕家だ。が、うわさによれば、太子は女には興味がなく、刀自古郎女にも冷たかったらしい。やっと恵まれたむすこ山背大兄王は、皇位争いで身内の入鹿に殺されている。
一方、法提郎女は、即位二年目の舒明天皇(三十七歳)の妃となる。もともと舒明には、一つ年下でしっかり者の皇后(のちの皇極天皇)がはべこっていた。さらに中大兄皇子、大海皇子まで儲けている。のちのち彼らは天智天皇、天武天皇となり、堂々と天皇継承者になって花を咲かせた。法提郎女にせっかく授かった古人大兄皇子は、祖父・馬子の願望もむなしく天皇継承は果たされずじまいだ。
蝦夷と入鹿は、甘樫丘の麓に家を並べて建てた。それぞれを上の宮門(かみのみやかど)、谷の宮門(はざまのみかど)といい子女を王子と呼ばせた。さらに二人の墓を陵(皇室の墓)と称してはばからない傲慢さ。「天皇の地位を脅かそうとしている」として、入鹿はついに中大兄皇子とその一派に殺害された。もはやわが蘇我家もこれまでと、蝦夷は自邸と入鹿邸に火を放って自刃する。
こうした蘇我家の滅亡とともに、刀自古郎女、法提郎女、の娘たちも、いつしか露と消えてしまっていた。哀れでならない。


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