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安井道頓に会いたくて

  盂蘭盆(うらぼん)の日。ご先祖の墓参りに行こうという夫に顰蹙(ひんしゅく)を買いながら、私は道頓堀へ行くといって別々の電車に乗った。ふと安井道頓に会いたくなった。きょうなら精霊仲間と彼の世から帰っていて会える気がしたからだ。
 戎橋に着くとおりしも架替工事中であった。すぐの横にある仮橋は、押すな押すなの人出。川の両岸辺にはテラスのような遊歩道が、上手の太左衛門橋へのびている。そぞろ歩きする日傘や帽子姿。ピーチパラソルの影でジベタリアンをきめこむ若者ら。繁華街の水辺空間は、暑気にうだる人々を開放感に浸らせている。こんな光景に目を細めて満足げな道頓の顔が、川面にゆらいでみえる。
 安井道頓は河内久宝寺の豪族である。
 父・定正とともに豊臣秀吉につかえ、大阪城造営に尽力して、その褒美に城南の地を賜ったという。
 もともとこの地に梅津川が流れていた。
 川とは名ばかりの小流で、大雨でも降ればたちどころに溢れ、ぐるりの野原は水浸し。そこで一念発起した道頓。湿地帯の水捌けをよくし、水運を図り、城下町に反映させてやろうと……。いとこの安井九兵衛(道卜(どうぼく))、親類の平野藤次をはじめ久宝寺の農民をよびよせた。私財を投げうった。梅津川を拡張し、東横堀川から木津川にいたる河川開削工事に着手した。慶長十七(一六一二)年である。
 ところが工事半ばにして大坂の陣がはじまり、道頓はあえなく戦死。のち九兵衛らが道頓の遺志をついで工事をつづけ、元和元年(一六一五)年に完成した。のち徳川の世で大坂城主となった松平忠明は、道頓をあわれみその名をとって道頓堀と名付けた。
 道頓堀川の通説である。私は子供のころに教わったが、いったん脳裏に焼きついたものは容易に離れようとしない。
 それにして昔の人はえらいと思う。堀を開削するにはそれだけの富もいるが、技術も必要だろう。安井一族はカネだけではなくワザも合わせもつ豪族中の豪族だったのだ。
 そんな道頓の地位逆転・失墜のときがやってきたのは、昭和四十年代はじめであった。
 子孫である安井さんが大阪市を相手にして、道頓堀の所有権を主張して訴えをおこされた。『道頓堀裁判』(牧英正著)がそれである。
 裁判がきっかけで、あるお偉い学者先生の主張がいっきに浮上した。かねてより道頓は成安(なりやす)道頓のほうであると、安井説は否定されていたらしい。
 成安氏は平野の七名家の一つである。今も残る系図や古文書に、はっきりと道頓堀の開削に携わったことが明記されているという。
 裁判は十一年余りの歳月をかけて昭和五十一年十月、安井さんが敗訴した。以来、成安説は、学者や知識人はもちろん普通の大阪人にも、浸透しつつあると知る。
 大体、江戸から三百六十年余も経ってから、あれは「間違ってました」「人違いでした」といわれても、簡単に改められるだろうか。
 いつものコースである千日前の三津寺墓地(松林庵)へと、私の足は向いていた。
 庵を入って正面奥に、二メートルほどの五輪塔「贈従五位、安井道頓居士・安井道卜居士」が、十年一日のごとく建っている。ユリの花、缶入りのお酒とお茶が供えられている。「贈従五位」の文字は後年の加筆だとか、ほんとうは四代九兵衛のために建てられたものであるとか、不思議さはあるものの、大方は道頓の墓と信じてきた。
 私は道頓堀川にもどり、日本橋北詰の東角にやってくる。安井道卜の元屋敷跡である。背高い石碑が建っている。前面に「贈従五位安井道頓安井道卜紀功碑」。背面には二人の功績をたたえているという、難しい漢文の碑文。大正十四年近くの町々や隣組有志の浄財で作られたものだ。
 墓にせよこの紀功碑にせよ、成安説が浸透しつつある現代、訂正、撤去もなく残るのは、通説を捨て切れないあらわれではなかろうか。と、凡人の私はついつい思ってしまう。
 にっぽんばしから燈籠流しで道頓を見送ることにしよう。私の中の燈籠は、右にゆれ、左にゆれて、ゆらゆらと。ともすれば川波に呑まれそうになりながら木津川へ、さらには大阪湾の荒波に揉まれるだろう。決して灯火を消すことがないようにと祈った。

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