川辺の船宿を訪ねて (2)伏見港から「寺田屋」へ
船宿「鍵屋」で、勝手な想像をめぐらせた私は、その朝やってきた京阪本線「枚方公園」駅までもどってくる。駅の時計は正午を指している。近くのレストランで軽食をとりながら、ここから京都伏見へも、足を伸ばしてみよと思い立った。さらに淀川水運のロマンを追っかけるのも、楽しいのではなかろうかと……。駅員に訊ねたら、伏見へは「中書島(ちゅうしょじま)」駅で下車すればいいと、教えてくれる。
電車が枚方の街を出外れると、牧歌的な佇まいの木津川、宇治川に出合う。二つの川を横切り十分ほど行くと、「中書島」駅到着。駅から住宅地をぬけて南西に四百mほど歩く。と、いつの間にか、宇治川を見下ろせる港の一段と高い堤防上に、私は佇んでいた。
港の名は、淀川の三川合流地点よりすこし上手、宇治川の右岸の門戸をひらく「伏見港」。江戸時代の三十石船が、大坂八軒屋とを頻繁に往復した、京側の玄関港である。
九月の下旬。渇水期のせいだろうか、岸辺の葦原に囲まれた宇治川は、川幅せまく蛇行しながら流れていく。川の表情は都市型のそれとは異なり、陽の光をうけてキラキラした輝きを見せる。みごとな清流だ。とはいえ、船の姿は見るべくもない。残念ながら三十石船のイメージなど、とうてい湧いてはこない。
港に二つの真新しい閘門(こうもん)がそそり立つ。伏見港内と宇治川の水を調節する「三栖(みす)閘門」とある。橋脚を思わせるような、ドでかい直方体のコンクリート門柱。真っ赤な遮断壁。周辺の自然とは、何とも不釣り合いだ。残暑の名残とどめる中、枚方の「鍵屋」から足を伸ばしてやってきた私には、期待外れの感がぬぐえない。
ふと、堤防下にある鮮明な案内板に、目が止まる。閘門から陸地側をコの字型に、「濠川(ごうかわ)」という川が分流している。ちょうど大阪の土佐堀川から分かれて、同じ下流へとつながる東横堀川・道頓堀川・(元)西横堀川の地勢に、よく似ている。
その「濠川」を、現代版の観光船・十石船が往来するらしい。川辺のひとつ南浜に、船宿「寺田屋」のマークが光っている。何、なに?「寺田屋」といえば、歴史的に知られた「寺田屋騒動」の舞台である筈だ。この「濠川」沿いあったとは、迂闊(うかつ)にもしらなかった。俄然、私に元気が湧いてきた。いざ「寺田屋」へ!足取りも軽やかに、「濠川」沿いを北へと歩きはじめていた。
川幅は何mくらいだろうか。それほど広くない。が、豊富な水量で川がみなぎっている。川面すれすれをのびる石畳の遊歩道。まさにウオーターフロントそのものだ。プンプン臭う夏草。「チンチロリン」と鳴く松虫。いかにも、江戸の昔からそうであったかのような自然に、満ち溢れている。
途中から川には東に折れて「出会い橋」がある。北からの流れが合流するので、この名が付けられたのか。等間隔に息づく大木のシダレヤナギが、川面にゆらゆらと影を投げかけている。川に張り出たコンクリートの旧船着場。まるで時代劇にある京の町そのものだ。
まもなく南浜にやってきた。ここも船付場が残されている。はやる気持ちで浜から石段を駆け上がると、欄干の御影石に白抜きされて「きょうはし」がある。橋を渡って東へ五十mもいくと、「寺田屋」(京都市伏見区南浜町)にご対面である。
いかにも古風な構えの木造・瓦葺き二階建である。「鍵屋」に比べると規模はやや小さいが、格子の出窓、簾(すだれ)、提灯など、旅籠としての体裁は酷似している。なにより行灯に描かれた『史跡・寺田屋』には、歴史的な重みが感じられる。
表玄関の脇にある<伏見寺田屋殉難九烈士之碑>に見入っていたら、とつぜん人の気配がする。ふりむくと、二十人余りの観光客を引率して、六十歳代くらいのベレー帽をかぶる男性が近寄ってきた。私は厚かましく観光客の中に潜り込ませてもらうことにしよう。
「みなさん、ここが『寺田屋』です。一八六二年四月二三日の夜明け。討幕の挙兵を計画する薩摩藩・急進派に対して、それを鎮めなだめようとした温和派との内部抗争がありましてね。この石碑には、犠牲となった有馬新七ら急進派九名の御霊が、まつられています」
ベレー帽氏はかなり歴史に精通され、手慣れた話しぶりだ。「寺田屋騒動」における尊攘派と公武(こうぶ)合体(がったい)派の対立を、分かりやすく説明しているようである。
私の中の未熟な歴史によると――、一八六二年といえば、その九年前(五三年)には、アメリカのペりーが浦賀に来航。翌年、ペりーと幕府は、日米和親条約を結んでいる。さらに五八年六月、井伊直弼大老は勅許を得ないまま、日米修好通商条約に調印。そのほか日蘭修好通商条約、日英修好通商条約、日仏修好通商条約など、いっきょに開国の波が押し寄せている。
鎖国がモットーの江戸時代に、天皇を尊崇し外国を排斥しようとする、尊攘派の動きがあったことは頷(うなず)けないこともない。やがて彼らは、討幕運動を展開していくのだが……。「寺田屋騒動」は、明治維新の夜明け前におきた、いしずえ的なうねりの一つであろう。
観光客には、Tシャツ・ジーパン姿の若者が多い。それもカップルらしいのが目立つ。彼らは何に引かれて、ここへやってきたのだろうか。そんな野暮なことを考えながら「寺田屋」へ入館する。帳場、台所、配膳場、風呂場、洗面所等など。それらの一面に、こじんまりとした和室があり、ベレー帽氏は説明する。
「『寺田屋』は薩摩藩の定宿でしたが、ここは女将・お登勢さんの部屋です。義侠心が強く、多くの志士たちを助け、無料で泊めることも多かったようです」
時代が変遷したとはいえ、プライベートな個室に、多勢が土足のまま踏み込むとは……。お登勢さんが嘆いてはいまいか。何だか気が咎めてならない。
二階に上がると、間仕切りされた小部屋が並ぶ。「梅ノ間」以外の五部屋は、今も、予約制だが泊まれるそうだ。「梅ノ間」は、薩摩藩の紹介で、坂本龍馬が愛用したという。床の間に飾られた二刀の長剣と、龍馬像の掛軸。オールバックの髪、太い眉毛、真一文字にむすんだ口、いかにも江戸の風雲児然としている。
坂本龍馬。生年・一八三五年。土佐藩士を脱藩して勝海舟に師事し、尊攘派から開国派に傾いた人物である。六六年、薩長連合を成立させた話は、周知のことだろう。(六八年、同連合の新政府軍と旧幕府軍は、鳥羽・伏見の戦い「戊辰戦争」を起こした)。幕府側からはとかくマークされていたようだ。同年一月二三日、「梅ノ間」に泊まっていた彼は、幕吏の襲撃をうけたのである。
その模様をベレー帽氏は、熱っぽくしゃべる。
「そのとき龍馬は、長州藩士と酒を酌み交わしていたんです。そこへ百名くらいの捕方が「寺田屋」を包囲、襲撃してきた。たまたま湯に入っていたお登勢さんの養女お龍さんが、捕方に気づき裸のまま階段を駆け上がり龍馬に知らせた。彼はケガを負いながらも、屋根を伝って飛び降り、裏の家を通りぬけて逃れたんです」
もともとお龍と龍馬は恋仲だった。「濠川」沿いを薩摩藩邸まで、いっしょに逃げたという。
このスリリングな場面に、観光客の若者たちは共感覚えるだろうか。緊張の面持ちで聞き入っている。
そのときの傷が回復するとすぐ、龍馬は海路を鹿児島へ向かった。もちろんお龍も同船する。二人にとって幸せ一杯の新婚旅行となった。
枚方の「鍵屋」から水路ならぬ陸路で、伏見の港を訪ねた私は、図らずも、船宿「寺田屋」に出会うことができた。そして、『史跡・寺田屋』は、今こうして、幕末動乱期における人間・坂本龍馬の生きざまやロマンスを、くっきり浮き彫りにしてくれたのである。
もろもろの感慨にひたっていたら、ベレー帽氏と観光客は、いつの間にか水が引いたように姿を消してしまっている。私はふたたび「きょうはし」のたもとから、川辺に降りてみた。折りも折、「濠川」を観光船・十石船が客を乗せて川面を滑っていく。私がそこに、龍馬とお龍の姿をオーバーラップさせるのは、当然の成り行き(感情)というものではあるまいか。
海路を鹿児島まで新婚旅行にでかけた二人は、この南浜より三十石船に乗り、お登勢さんに陰ながら見送られて出立。そして伏見の港から、宇治川をくだって西へ。桂川・木津川との合流点からは、淀川は本流に乗って南西に走り、中継地の枚方浜では、「くらわんか舟」の飲食を楽しみ、毛馬の閘門から八軒屋に到着しただろう。
大坂での乗り継ぎはどんな船?薩摩藩差し回しの漁船ででもあったのか。瀬戸内海を西へとひた走りに走り、やがて豊後水道を南下。薩摩へは、錦江湾から桜島を仰ぎながら入ったのだろう。のどやかで、くつろぎのある空間、船旅。二人は悠遠の未来を語り合ったに違いない。
その翌年一八六七年十一月。京の旅籠・近江屋で幕府見廻り組に襲われ命を落とすことになろうとは、豪気の龍馬に、どうして、このとき予測できたであろうか。


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