生きた鰯の目
家族ぐるみで大阪から疎開した私は、愛媛県新居浜郡にある半農半漁の村の国民学校へ二度目の転校をしていた。あれは二学期が始まってまもなくの授業中であった。
「……あんずさんの目を見てみんかい、生きた鰯の目のように輝いとーる。みんなのはどうぞね、死んだ鰯の目のようぞな……」
六年梅組担任の佐々木冨久先生が、突然、こう言われたので、級友たちは一斉に騒ぎだした。引き合いに出された私は青天(せいてん)の霹靂(へきれき)で、なぜこんな乱暴な言い方をされたのかさっぱり分からない。ただ想像できるのは、この真夏日に迎えた終戦。子供たちも荒れ地を開墾したり、河原からの石運びや武道のけいこにも必死だった。すべてが徒労に終わり脱力感におおわれていたのだ。
私がもし生きた鰯の目のようだというならば、それは、この七月に母が子宮筋腫の手術をして病院から生還してきたからだ。また、出征して中国と台湾にいるという二人の兄が、終戦で必ず帰ってくる。そしたら、この田舎でのどん底生活から抜け出せる。単純にそう信じていたからに違いない。
その日、私が下校しようと校門まで来たとき、外側で私に冷たい視線を向けているグループに気がついた。梅組でも親分肌のカメさん、その子分格の玉ちゃん、和ちゃん、ヨウちゃんの四人組だった。いつも帰る方向が同じだがこの気配はただ事ではない。私が校門前の県道を帰りかけようとすると、がやがやと四人組もついてくる。急ぐと向こうも急ぐ。
「やーい、やーい、あんずさんの目は生きた鰯の目エ、うちらは死んだ鰯の目ェ」と、嘲罵(ののしる)するように連呼する。私はとっさに怖くなって走りだした。
県道の両側の稲穂が風に揺れて、私に声援の旗を振るようにつづいていた。もんぺとブラウス姿にかばんを脇に抱え、それに祖母が編んだわら草履をはいていた。わら草履は軽く、これもまた祖母が励ますようだ。気ばかり焦って両足が絡まりそうになる。おまけに、前夜の雨含みの県道で草履がだんだん重くなり、やたらに小石や砂を後足へ跳ね上げる。それでも一気に五、六百メートルくらいを走ったが、四人組も影絵のようについてきた。駅前の家まであと五百メートル。心臓が躍りだしもう走れなくなった。
目前に小さな川があった。ここからの県道は登り坂になっていて、四国山脈の裾野とはいえ平地よりは一段と高いところに造られた駅のある通りにつないでいた。このまま坂道を行くのは苦しいし、川を上手にとっても余計に不利になる。たった一つ、川沿いに下だるしかないが、この土手は今まで通ったことがない。すぐの向こう岸に避病院があるからだ。伝染病の隔離病舎で、あそこには近寄るなと日頃から聞かされていた。咄嗟(とっさ)に私はここへ逃げ込むことにした。一本の木橋をわたりずらりと並ぶ病舎の裏手にまわった。
建物はひどく荒れ果てて、ひとっけはもちろんない。慌てたトカゲが数匹、叢(くさむら)から跳び出して、一瞬、息の止まる思いがした。雑草が生い茂り硝子窓は割れ、中を覗くと床は落ちて消毒薬が白くこびりついている。壊れた病室越しに県道を見たら、四人組がこちらを睨んでいて再び緊張した。一分くらい睨みあっていただろうか。避病院に逃げ込んだ哀れな小羊に武士の情をかけたとでもいうのか、四人組は悠々と県道を帰っていくではないか。その途端、私は足元の叢にへなへなっと座り込んでしまった。
翌日、学校では私と四人組の話でもちきりになっていた。この敗走劇を校舎の屋上から見ていた生徒がいたためである。その悔しさ恥ずかしさをバネに、私はそれからの受験勉強に拍車をかけていた。明けて昭和二十一年春、東予でも名門の一つと言われた県立の高等女学校に合格。四人組とは別れたが、あの避病院での気味の悪さは、当分、忘れられなかった。


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