麦畑の香り
「もう自転車に乗るな」。私の夫の口癖です。氾濫する車、蜂の巣をつついたような違法駐輪。体の為にも歩けと言うのです。そりゃ私にだって分かります。だからといってその後のセリフが気に入りません。あんたは年、幾つやねん。六十にも近うなって。第一、乗ってる姿は、あれなんや。危なっかしゅうて見てられへん。大きなお世話なんですよ。
思えば昭和二十一年、終戦のどさくさと何もかも貧しい中で、十二歳の私は小さな希望の星を見つけたのです。瀬戸の海に沿って入浜式の塩田が、反対側には、SLの煙を吐く四国山脈の麓まで青々とした麦畑が広がって見えます。その中央を凸凹な県道が走ります。バスが砂埃をあげ、肥たごを積んだ牛・馬車がガタゴトと通り過ぎます。こんな光景の中で、私は自転車乗りに挑戦したのです。大人用の自転車にチビの私では、いわゆる三角乗りしか出来ません。乗ってもすぐ疲れます。乗っては歩き、歩いては乗るの繰り返し。村人がくすくす笑って振り向きます。
ある日の事。三角乗りで一気に風を切りました。走る、走る、天にも上ぼる心地でしたのに、にゅっと荷車の馬さんと鉢合わせ。あっと叫んだ途端、気がついたら自転車もろとも麦畑に。葉っぱや茎をなぎ倒し、まるでキッスをした形で私は転がっていました。漂う自然の香りに酔いました。それ以来です。自転車の腕がめきめき上がったのは……。
その年入った女学校では、茶の湯、礼法で楚々とした身嗜みを教わりました。でも、うちに帰ると性懲りもなく自転車にまたがっていました。学生改革とやらで高校に転校してからは自転車通学。もう得意の絶頂です。田圃の畦を近道します。雨の日、左手にハンドル右手に破れ傘、ひどい泥濘(ぬかるみ)をサーカスの曲芸さながらです。あれから四十年。お願いだから「自転車をおりろ」なんて、野暮なことは言わないで。麦畑にキッスしたあの香りが今も甦るのです。


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