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花博(大阪国際花と緑の博覧会 1990年)が私に残したもの(1)

 お盆のころ、花博に二度ばかり出向いて行ったが、私は癖へきしていた。会場に着くと、ついつい人気のある「街のエリア」に足を向けてしまう。パピリオンに入るために、炎天下を一時間から二時間近くひたすらに並んで待つ。要領の悪い私などは、これだけで疲れはてる。ほかを見て回るエネルギーさえも失ってしまうありさま。私の花博とは一体なんだろう。結局、終幕という九月三十日、三度目の正直を行くことにしたのである。
 その朝のニュースで、台風二十号の白浜上陸を伝えていた。雨風は窓硝子をたたき、窓からみえる公園の“にせアカシア”が、大揺れにゆれている。「物好きな」。家人のひんしゅくをかいながら、私は雨支度し着替えを用意して家を出た。台風接近で人出も少ないだろうと単純な思いつきと、ささやかでいい、何か心に残る思い出を求めたかった。
 会場は予想に反して大混雑である。雨風は相変わらず強い。鶴見大池のほとりを歩くことにしたが、のんびりと歩けるムードではない。足早に一回りして、ふと、目についたのが「国際展示・水の館」である。三十カ国余りの特産品展示と即売会場。ここは待たなくてよい。雨よけを兼ねて入ることにした。
 雑踏のなかで何げなく立ち止まったのが、寺院風なゲート。ネパール王国とある。奥のほうに手作り人形がぶら下がっている。身長五十センチくらい、黒糸でつくったもじゃもじゃの頭。顔には蛇模様のあるお面をかぶせているが、巻きスカートとラグラン袖のきものをきているから、女性のようだ。手足は雑な木彫り。なんとも奇妙なのが、四本も腕があることだ。
「これは、なんの人形ですか?」。私は店員らしいネパール青年に尋ねた。「これ、
カリの神様。やくよけになります」「カリって、どんな神様なの?」「わたくし、日本語わからないから、これ以上せつめいできません」。定価七千円が五千円に値下げされている。私は買うことにした。
 ネパールの神様をかたどる人形。それがなんの神様であれ、ちょっと奇妙で、素朴で、なによりも厄除けなのが気にいった。その代価としての五千円、決して高くない。こう納得ずみなのに、さもしい主婦の打算が頭をもたげてきた。ネパールでは、どのくらいで売られているのだろうか。
 この国の貨幣価値は知らない。ベトナムの青年の月給が、日本円で四、五千円と聞いたことがある。仮に、人形の値段をこの月給に対比させるなら、換算できないくらい安いものだろう。五千円とは、いかにも日本的な値段をつけたものだ。会場までの運賃、人件費をたしても、こうはなるまいと勝手な想像をしてみた。
 だが、そんなことより、はるばる中国とインドに挟まれた山岳地帯からやってきた国。「ようこそ」と拍手を送らねばなるまい。その表現としての5千円と思えばいいことだ。日はとっぷりと暮れてきた。台風騒ぎは立ち消えて、私はカリ人形にすっかり満足しながら帰り道をいそいだ。
 その夜、新聞記事をみてある偶然性に驚いた。山のエリアに建てられた国際庭園のなかの、ネパールの事情である。この国の代表的な寺院パゴダ(平和の塔)と付属施設サタル。そのサタルだけの建設費六百万円が、払えないで困っていた。花博終了後、国際庭園は全て残されるそうだが、負債のあるものは引き継げないと、大阪市などから撤去を迫られていた。が、ある篤志家の私費で救われ、パコダとサタルは揃って残ることになったとある。
 これくらいのことで、この国が貧しいとは思いたくない。それどころか、大変な仏教建築の提供を知って、もしかしてと、私のカリ人形への興味を一層かりたてられた。やがて、このカリこそ、ヒンドゥー教のご立派なメガミ様だと知ることになる。                                                       つづく

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