川辺の船宿を訪ねて (1)「鍵屋」とくらわんか舟

   “三十石船『復活』”≪江戸時代旅人気分≫
  枚方市企画(二〇〇六、九、三十付朝日新聞)
 この記事に触発されて、私は急に枚方へ行きたくなった。京阪本線「枚方公園」駅下車。北へ五分ほどの旧「京街道」沿いに、往時の船宿「鍵屋」が資料館として残っていることを、知人から教えられてもいたからだ。
 古風で頑丈な構えの木造、瓦葺きは、「鍵屋」の主家(しゅおく)だろうか。大屋根から顔をだす「煙出し」(煙突)。重厚な柱や玄関板戸、格子の出窓。行灯。カギの絵を染め抜いた暖簾など、老舗の貫禄を充分、備えている。
 主屋の裏側に、別館らしい二棟が並ぶ。その更なる奥手には、近年にできたであろう淀川の堤防が、屏風のように立ち塞がっている。昔日の別館は、直接、川辺に繋がっていたに違いない。と、このように、表玄関は「京街道」、裏口は淀川に臨むという、船の乗船に最適な船宿の輪郭が見えてくる。
 別館の片一方から入館する。迷路のような廊下に面して、床間や床脇棚を備えた小部屋が、幾つも連なっている。どれくらいあるのか見当も付かない。調理場や蔵、植込みなどもある。かなり大きな旅籠のようだ。
 枚方は、大坂八軒家と京都伏見の間を往来した、淀川三十石船の中継地である。枚方宿にはこんな旅籠が、約七十軒もあったそうだ。
  鍵屋浦には碇がいらぬ
   三味や太鼓で船とめる
「鍵屋」を目の当たりにしていると、乗降や休憩・食事をとる庶民の歓楽が、嬌声や三味の音とともに伝わってきそうだ。
 こんな船宿と肩を並べて繁昌したのが、「くらわんか舟」であろう。館内の地下室らしきところに、その模型が展示されている。枚方浜に近づいた三十石船の乗客に、「飯くらわんか、酒くらわんか、ごんぼ汁くらわんか」と、口ぎたなく酒や料理を売りつけた小舟だ。
 通りがかりの館員が、「くらわんか舟の営業権は、もともと大坂夏の陣で徳川方に協力した功により、摂津国柱本(高槻)の舟に与えられたものです。が、いつしか枚方へ拠点が移ったんですよ。」と、教えてくれる。
 私は、『石松三十石船』の浪曲を、父からよく聞かされた。森の石松は、讃岐の金比羅参りをすませた後、八軒屋から三十石船で京都見物に向かった。「江戸っ子だってねぇ」「神田の生まれよ」「鮨、食いねぇ」。清水一家で強いのは誰?  ついに自分の名前が出てきて喜んだ石松。この枚方あたりのくらわんか舟から酒や鮨を買い求め、くだんの江戸っ子に大判振舞をしたのだろう。
 くらわんか舟で使われた「くらわんか茶碗」が、三十点余りも並ぶコーナーに出合う。十把一からげで、雑などんぶり鉢かと思いきや、鳥や草花などを絵付けした、なかなか、どうして、趣のある磁器だ。形も大皿、茶碗、壷等さまざまで、欠けたのも胸を張って並んでいる。
 何より私を驚かせたのは、この茶碗たちが現代へ出現したそのルートだ。三十石船が停泊したこの辺りの川底から、拾いあげられたとある。安治川(旧淀川)の川底から姿をあらわして、大坂城用の巨岩が成れの果てとなった、かの「残念石」。「くらわんか茶碗」よ,お前もか……。まこと、わが愛する淀川は、ロマンに満ち溢れている。
 当時、食べた茶碗の数で食事の料金を精算していたというから、今の回転すし屋商法に似ている。ところが、不逞のヤカラが金をごまかすため、茶碗を川にこっそり捨てていた。今更、不逞の連中に請求もできまい。あの石松に疑いの矛先を向けたならば、「おら、そんなケチな真似はしねぇ」と、激怒されそうだ。実際、くらわん舟は、鷹揚な商売をしたものだ。が、目こぼし分をさっ引いても、なお余りある収益を挙げていたのだろう。
 三十石船にまつわる船宿とくらわんか舟の賑わいは、一八八〇(明治十三)年、鉄道の開通とともに衰退していく……。「鍵屋」は、≪江戸時代旅人気分≫を、私に彷彿と蘇らせてくれた。いつの日か、平成の三十石船にも乗ってみたいと思う。

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川辺の船宿を訪ねて (2)伏見港から「寺田屋」へ

 船宿「鍵屋」で、勝手な想像をめぐらせた私は、その朝やってきた京阪本線「枚方公園」駅までもどってくる。駅の時計は正午を指している。近くのレストランで軽食をとりながら、ここから京都伏見へも、足を伸ばしてみよと思い立った。さらに淀川水運のロマンを追っかけるのも、楽しいのではなかろうかと……。駅員に訊ねたら、伏見へは「中書島(ちゅうしょじま)」駅で下車すればいいと、教えてくれる。
 電車が枚方の街を出外れると、牧歌的な佇まいの木津川、宇治川に出合う。二つの川を横切り十分ほど行くと、「中書島」駅到着。駅から住宅地をぬけて南西に四百mほど歩く。と、いつの間にか、宇治川を見下ろせる港の一段と高い堤防上に、私は佇んでいた。
 港の名は、淀川の三川合流地点よりすこし上手、宇治川の右岸の門戸をひらく「伏見港」。江戸時代の三十石船が、大坂八軒屋とを頻繁に往復した、京側の玄関港である。
 九月の下旬。渇水期のせいだろうか、岸辺の葦原に囲まれた宇治川は、川幅せまく蛇行しながら流れていく。川の表情は都市型のそれとは異なり、陽の光をうけてキラキラした輝きを見せる。みごとな清流だ。とはいえ、船の姿は見るべくもない。残念ながら三十石船のイメージなど、とうてい湧いてはこない。
 港に二つの真新しい閘門(こうもん)がそそり立つ。伏見港内と宇治川の水を調節する「三栖(みす)閘門」とある。橋脚を思わせるような、ドでかい直方体のコンクリート門柱。真っ赤な遮断壁。周辺の自然とは、何とも不釣り合いだ。残暑の名残とどめる中、枚方の「鍵屋」から足を伸ばしてやってきた私には、期待外れの感がぬぐえない。
 ふと、堤防下にある鮮明な案内板に、目が止まる。閘門から陸地側をコの字型に、「濠川(ごうかわ)」という川が分流している。ちょうど大阪の土佐堀川から分かれて、同じ下流へとつながる東横堀川・道頓堀川・(元)西横堀川の地勢に、よく似ている。
 その「濠川」を、現代版の観光船・十石船が往来するらしい。川辺のひとつ南浜に、船宿「寺田屋」のマークが光っている。何、なに?「寺田屋」といえば、歴史的に知られた「寺田屋騒動」の舞台である筈だ。この「濠川」沿いあったとは、迂闊(うかつ)にもしらなかった。俄然、私に元気が湧いてきた。いざ「寺田屋」へ!足取りも軽やかに、「濠川」沿いを北へと歩きはじめていた。
 川幅は何mくらいだろうか。それほど広くない。が、豊富な水量で川がみなぎっている。川面すれすれをのびる石畳の遊歩道。まさにウオーターフロントそのものだ。プンプン臭う夏草。「チンチロリン」と鳴く松虫。いかにも、江戸の昔からそうであったかのような自然に、満ち溢れている。
 途中から川には東に折れて「出会い橋」がある。北からの流れが合流するので、この名が付けられたのか。等間隔に息づく大木のシダレヤナギが、川面にゆらゆらと影を投げかけている。川に張り出たコンクリートの旧船着場。まるで時代劇にある京の町そのものだ。
 まもなく南浜にやってきた。ここも船付場が残されている。はやる気持ちで浜から石段を駆け上がると、欄干の御影石に白抜きされて「きょうはし」がある。橋を渡って東へ五十mもいくと、「寺田屋」(京都市伏見区南浜町)にご対面である。
 いかにも古風な構えの木造・瓦葺き二階建である。「鍵屋」に比べると規模はやや小さいが、格子の出窓、簾(すだれ)、提灯など、旅籠としての体裁は酷似している。なにより行灯に描かれた『史跡・寺田屋』には、歴史的な重みが感じられる。
 表玄関の脇にある<伏見寺田屋殉難九烈士之碑>に見入っていたら、とつぜん人の気配がする。ふりむくと、二十人余りの観光客を引率して、六十歳代くらいのベレー帽をかぶる男性が近寄ってきた。私は厚かましく観光客の中に潜り込ませてもらうことにしよう。
「みなさん、ここが『寺田屋』です。一八六二年四月二三日の夜明け。討幕の挙兵を計画する薩摩藩・急進派に対して、それを鎮めなだめようとした温和派との内部抗争がありましてね。この石碑には、犠牲となった有馬新七ら急進派九名の御霊が、まつられています」
 ベレー帽氏はかなり歴史に精通され、手慣れた話しぶりだ。「寺田屋騒動」における尊攘派と公武(こうぶ)合体(がったい)派の対立を、分かりやすく説明しているようである。
 私の中の未熟な歴史によると――、一八六二年といえば、その九年前(五三年)には、アメリカのペりーが浦賀に来航。翌年、ペりーと幕府は、日米和親条約を結んでいる。さらに五八年六月、井伊直弼大老は勅許を得ないまま、日米修好通商条約に調印。そのほか日蘭修好通商条約、日英修好通商条約、日仏修好通商条約など、いっきょに開国の波が押し寄せている。
 鎖国がモットーの江戸時代に、天皇を尊崇し外国を排斥しようとする、尊攘派の動きがあったことは頷(うなず)けないこともない。やがて彼らは、討幕運動を展開していくのだが……。「寺田屋騒動」は、明治維新の夜明け前におきた、いしずえ的なうねりの一つであろう。
 観光客には、Tシャツ・ジーパン姿の若者が多い。それもカップルらしいのが目立つ。彼らは何に引かれて、ここへやってきたのだろうか。そんな野暮なことを考えながら「寺田屋」へ入館する。帳場、台所、配膳場、風呂場、洗面所等など。それらの一面に、こじんまりとした和室があり、ベレー帽氏は説明する。
「『寺田屋』は薩摩藩の定宿でしたが、ここは女将・お登勢さんの部屋です。義侠心が強く、多くの志士たちを助け、無料で泊めることも多かったようです」
 時代が変遷したとはいえ、プライベートな個室に、多勢が土足のまま踏み込むとは……。お登勢さんが嘆いてはいまいか。何だか気が咎めてならない。
 二階に上がると、間仕切りされた小部屋が並ぶ。「梅ノ間」以外の五部屋は、今も、予約制だが泊まれるそうだ。「梅ノ間」は、薩摩藩の紹介で、坂本龍馬が愛用したという。床の間に飾られた二刀の長剣と、龍馬像の掛軸。オールバックの髪、太い眉毛、真一文字にむすんだ口、いかにも江戸の風雲児然としている。
 坂本龍馬。生年・一八三五年。土佐藩士を脱藩して勝海舟に師事し、尊攘派から開国派に傾いた人物である。六六年、薩長連合を成立させた話は、周知のことだろう。(六八年、同連合の新政府軍と旧幕府軍は、鳥羽・伏見の戦い「戊辰戦争」を起こした)。幕府側からはとかくマークされていたようだ。同年一月二三日、「梅ノ間」に泊まっていた彼は、幕吏の襲撃をうけたのである。
 その模様をベレー帽氏は、熱っぽくしゃべる。
「そのとき龍馬は、長州藩士と酒を酌み交わしていたんです。そこへ百名くらいの捕方が「寺田屋」を包囲、襲撃してきた。たまたま湯に入っていたお登勢さんの養女お龍さんが、捕方に気づき裸のまま階段を駆け上がり龍馬に知らせた。彼はケガを負いながらも、屋根を伝って飛び降り、裏の家を通りぬけて逃れたんです」
 もともとお龍と龍馬は恋仲だった。「濠川」沿いを薩摩藩邸まで、いっしょに逃げたという。
 このスリリングな場面に、観光客の若者たちは共感覚えるだろうか。緊張の面持ちで聞き入っている。
 そのときの傷が回復するとすぐ、龍馬は海路を鹿児島へ向かった。もちろんお龍も同船する。二人にとって幸せ一杯の新婚旅行となった。
 枚方の「鍵屋」から水路ならぬ陸路で、伏見の港を訪ねた私は、図らずも、船宿「寺田屋」に出会うことができた。そして、『史跡・寺田屋』は、今こうして、幕末動乱期における人間・坂本龍馬の生きざまやロマンスを、くっきり浮き彫りにしてくれたのである。
 もろもろの感慨にひたっていたら、ベレー帽氏と観光客は、いつの間にか水が引いたように姿を消してしまっている。私はふたたび「きょうはし」のたもとから、川辺に降りてみた。折りも折、「濠川」を観光船・十石船が客を乗せて川面を滑っていく。私がそこに、龍馬とお龍の姿をオーバーラップさせるのは、当然の成り行き(感情)というものではあるまいか。
 海路を鹿児島まで新婚旅行にでかけた二人は、この南浜より三十石船に乗り、お登勢さんに陰ながら見送られて出立。そして伏見の港から、宇治川をくだって西へ。桂川・木津川との合流点からは、淀川は本流に乗って南西に走り、中継地の枚方浜では、「くらわんか舟」の飲食を楽しみ、毛馬の閘門から八軒屋に到着しただろう。
 大坂での乗り継ぎはどんな船?薩摩藩差し回しの漁船ででもあったのか。瀬戸内海を西へとひた走りに走り、やがて豊後水道を南下。薩摩へは、錦江湾から桜島を仰ぎながら入ったのだろう。のどやかで、くつろぎのある空間、船旅。二人は悠遠の未来を語り合ったに違いない。
 その翌年一八六七年十一月。京の旅籠・近江屋で幕府見廻り組に襲われ命を落とすことになろうとは、豪気の龍馬に、どうして、このとき予測できたであろうか。

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影絵

  うちのご亭主が、不慮の事故でケガを負ってしまいました。「左肘剥離(はくり)骨折」という全治3ヶ月のケガを……。
 それは二〇〇六年十一月初旬のことです。
 南港「中ふ頭」の街は明るくて見通しがよく、大阪でもシンボル的な地域で知られています。そんな町の舗装道路に敷かれた簡易レンガに、足を奪われて転んでしまったのです。

「そりゃ、もう齢だから、仕方ないよ」
 こう片付けてしまうのは、余りにも酷というものですよ。「若い者には負けへんぞ」と、老いてますます意気軒昂(いきけんこう)のお方です。「一寸、戒めてやれ」。おそらく天に在わします神様の、嫉みに合ったのでございましょう。
 もともと負けず嫌いの彼のことですから、入院、手術そして三週間の固定期間を、まあ平然とクリアしましてね。「さぁ、今日からリハビリを」と、主治医より許可が出てからというものは、ご自分でも、そりゃ、涙ぐましい努力をなさったようでございます。
 彼は、こよなく愛する晩酌を嗜んだあと、「飯」をお召し上がりになり、終わるや否や、いつも「風呂」と申されます。私はなるべく遅めの入浴をと願うのですが、一刻の猶予もありません。血圧や尿酸値が高いから、気が気でないのです。
 そこで私は、浴室の外からドアをコンコン鳴らして、「生きてますか?」と、少しばかり恨みもこめて軽口をたたきます。すると決まって「おー」と返ってくる。その声に安堵して、台所へ戻るのを常としています。
 さてリハビリが始まり、二、三日経った頃だったでしょうか。彼がどうも長湯なので気になり始めたのです。どうしたのかしら?いつもの<ドア・コンコン>、「生きてますか?」「おー」では納得できません。そのとき意を決した私は、痴漢よろしくこっそりと少しドアを開けて、中を覗いてみたのです。
 なんと彼は、湯舟に全身を横たえたまま、硬直した左腕を上下させたり、屈伸させたり。グウ、チョキ、パーと、指のリハビリにも励んでいるのです。真剣な面持ちで…。
 見えっ張りの彼は、こんな光景を妻に一度も見せたことがなかったのです。『あれぇ、いつの間にか、左腕が動くようになったぞ』と、うそぶきたいのでしょう。私はそおっとドアを閉じ、知らん振りをきめこみます。
 ところで人間の睡眠は、レム睡眠とノンレム睡眠の繰り返しだと、医学講座で聞いたことがあります。眠りは深いが脳波は覚醒時のような型を示すレム睡眠。一夜の睡眠でほぼ二時間おきに二十~三十分つづく。一方、ノンレム睡眠は深い眠りに陥る状態をいい、一夜の睡眠の八割を占めるそうです。
 ある夜中。私はまさしくそのレム睡眠から抜け出たような状態で、パツと目が覚めたのです。意識は朦朧(もうろう)として夢うつつです。寝室は真っ暗。ただ硝子窓の内側に建て付けた障子には、夜空の雲間から漏れる月光のせいでしょうか、ほんのりと明かりがさしています。
 その障子に私は、はっきりと、真っ黒な狐を目撃したのです。その驚愕さ加減といったら例えようがありません。狐は、尖った口をパクパクさせ、コンコンと鳴き、首をぐいっと伸ばしたりすくめたり。あぁ、恐ろしい。
 狐は一瞬、私を野生の世界に引きずり込みました。が、ほどなく、それはメルヘンチックな「影絵」の悪戯だと気づいたのです。
 首をぐいっとのばしたその付け根に、黒い大きな固まりがご亭主の頭だと分かった、そのときの可笑しさったら。狐は、正体がバレているのに霊力の赴くがごとく、<口パクパク><首ぐいぐい>を一層、活発にさせています。ぐっと笑いをこらえる私。そう、彼は夜の目も寝ずにリハビリに励んでいたのです。
 長湯で心配させたり「影絵」で驚かせたりしながら、全治を半月も早めたご亭主は、ある日、案の定つぶやきました。『あれぇ、いつの間にか、左腕が動くようになったぞ』と。

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卵の透かし売り

 二〇〇七年一月上旬から下旬にかけてマスコミに、宮崎と岡山の鳥インフルエンザ禍が相次いで伝えられた。いずれも中国ルートの渡り鳥が元凶らしい。二万数千羽もの鶏が、殺処分の難に遭っている。業者の損失は元よりだが、何だかとても、鶏がかわいそうでならない。どうせ食肉用の宿命にあるとはいえ、毒性の強い高病原性ウイルス(H5N1型)で「狂い死」というのは無残である。
 ところで鶏といえば卵。卵といえば半世紀も昔になるが、私の新婚生活を思い出す。
 昭和三十年代はじめ薄給サラリーマンの夫の許に嫁いだ私は、大阪市東淀川区の裏町に住んでいた。買物は、今のようにスーパー(冷たいイメージの)は少なく、公設市場とそれにつながる商店街で済ませるのが主流であった。
 あの頃の商店街は人情が厚く、買い物籠を下げた奥さんたちで賑わっていた。切れたゲタの鼻緒をすげ替えて貰える履物屋。てんぷら油を計り売りする酒屋。手のひらにのせた豆腐を幅広の平べったい包丁で切ってみせ、半丁でも売る豆腐屋。そして、米屋では恥ずかしげもなく一升(約一.八ℓ)買いをよくしていた。
 そんなとある一軒に、「卵の透かし売り」をするおじさんの店があった。大小により分けた卵の台の上に盛り上げられ、客の注文に応じて何個でも売ってくれる。
 腰は曲がっているが、いかにも好々爺らしいおじいさん。一個一個手品師よろしく、両手の指先でクルクルまわしながら裸電球に透かし、中身を点検して売るおじいさんの姿が、モノクロ写真のようによみがえる。
 当時、わが家に電気冷蔵庫などあろう筈がない。中古の氷冷蔵庫があるにはあったが、冷蔵能力は長持ちしない。そこで要るだけをバラ売りする、おじいさんの店はとても重宝だった。
 夫は卵料理が好きだから、私は毎日のように買いに行く。給料をいただいた当座は五個、月末で手元不如意になると二個といった具合に……。しかし、おじいさんはいやな顔ひとつしない。寡黙さを補ってなお余り有るほどの、笑顔を絶やさぬ老人だった。
 私どもは十数年でこの町を離れ、他区へ引っ越した。おじいさんの消息は分からないままになった。と同時に、それ以来、「卵の透かし売り」を見かけなくなったが、パック入り卵は大丈夫なの?という素朴な疑問を持ちつづけてきた。
 今年の二月初旬のこと。農協に勤める知人が、出張がえりにひょっこりわが家へ立ち寄ってくれた。私は好機到来とばかり、さっそく彼に訊ねてみたら、今でも「卵の透かし」はやっているという。
 卵の作業手順は、まず洗浄。つぎに大中小の選別。さらに暗くした倉庫で(写真現像をする暗室のような)一個ずつを電球に透かして中身点検。そしてパック詰め、紙箱詰め、発送等などすべて産地業者に委ねられているそうだ。
 オートメ化した設備で処理され、衛生的で新鮮な卵の供給をうけてきたことに、ひとまずは安心した。
 この話を聞くうちに、私は「ハッ」と、気がついた。あのおじいさんの店の片隅には、直方体の木箱がいくつも積み上げられ、卵を保護するモミガラが、その辺に散らかっていたなぁと。卵に親鳥のフンがこびりついていたが、それほど不潔には思わなかったなぁとも……。
 こんなご時勢だからこそ余計になつかしいのだろうか。「卵の透かし売り」をするおじいさんの姿は、古き時代の良き風物詩だ。私の脳裏から離れようとしない。

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老いのあがき

 夫七十七歳、妻(私)七十二歳。今やこの国の、五人に一人という高齢化社会の中枢的な陣容であろう。なのに、どうしたことか、私共は世間から抹殺されまいと、切磋琢磨の日々をすごしている。かような有様で……。
 夏至が近く、まだ太陽も沈もうとしない午後5時半すぎ、早めな二人だけの夕食タイムだ。夫はちびりちびりと晩酌をやりながら、だしぬけに話しかけてくる。
「それはそうと、カァサンや。俺のガン保険はどうなっている?」「どうなってるって、月七千五百円の保険料を、かれこれ七年ぐらい払いつづけているかしら?」「そんなこと分かっているよ。それより、このまえ『心臓疾患』で入院したときに、見舞金でも出たんかと、聞いているんや」「出る筈ないでしょう。ガンではないんだから……」「そんな保険なんて、あるやろか。おかしいぞ」。憤った夫の顔がみるみる変わって、私に怒鳴ってきた。「解約だ。今すぐ会社に電話しろ!」
 彼は過程ぬきに結果だけで私に迫るから、毎度ことがややこしい。酒量ふえるにつれ同じことを繰り返すが、言わんとすることは分からぬこともない。ガン保険といえども、他の病気で入院したとき見舞金ぐらいは払うべきだ。現に加入している交通災害保険(損保)からは、交通事故でないケガでも慰労金が出たではないか、という論法なのだ。
 急いでガン保険の約款を開いてみる。悪性のみが対象だ。同じガンでも良性ポリープ、上皮内新生物(腸粘膜内ガン)は、該当しないとある。では、なぜ、こんな融通のきかない保険に入ってしまったのだろうか。
 若いときから彼は保険ぎらいだった。病気になんかなるものかと、意気軒昂たる産業戦士そのものだった。二人の娘を育てる専業主婦の私は、やみくもに路頭に迷う母娘の絵図ばかりが胸中を去来し、どれほど夫に泣きついたか。が、彼は頑として首を縦にふらない。ついに保険なしの生活をずっと続けてきた。
 ガン保険は定年後、彼が七十歳のときに加入した。今なら有利だからと厚生年金協会からすすめてきたのだ。ガンにはかかる筈がないという冒涜(ぼうとく)心があったのか。それとも現役時代の上司や仲間も入ったというから、付和雷同したのだろうか。彼は、「ガン保険」という名の生命保険を後にも先にもたった一度だけ、この時、自分の意志で購入した。以来、その給付を受けないで済む幸運な道を、歩んで来てはいるが。
≪……解約だ。今すぐ会社に電話しろ≫
 頑固一徹な気質は昔も今も変わらない。時間は午後七時前。電話の向こうの社員は、昼間のような繁忙さの雰囲気から「何とか解約を思いとどまって」と、こちらを慰留する。それをムゲにも断れと、夫が私の横でせっつく。
 後日、解約書類が送られてきた。私は早速必要事項を記入、添付すべき書類も同封の上、封筒の口を糊付けした。
 これと同時進行で、私は別の保険会社を二、三あったてみた。七十七歳にもなっては、どこも簡単に門戸をかけてくれそうにない。
 郵政の簡保保険は七十歳までだ。しかも病歴の告知義務が付帯する。某社が八十歳までOKという入院保険をテレビで宣伝中だ。ありがたいことに告知義務なし。「これだ」と、書類をとりよせる。が、支払い対象外の欄に『心臓疾患』等と、小さいポイント活字がことさらに大きく光って見える。「あぁ、駄目か」。こうした私の下調べに感づいた夫は、「この年になると、保険にも入れんのか」と、ぽつり。私には何を今更の感がしないでもないが。
 糊付けしたガン保険解約の封書を投函しようと、私は夜の表通りに出た。と、ふいに彼の追っかけてくる気配がするではないか。
「悪いけど、その投函、ちょっと待ってくれんか」。多くを語ろうとはしないが、せっかく入ったガン保険を、不本意ながらも捨てたくない気持ちが痛いほど分かる。そこはかとなく見え隠れする「老いのあがき」。こんな日常生活を送っている私共は、まもなく金婚式を迎えようとしている。

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西郷イト婦人の気概

  「宿んし(うちの主人)はこげんなお人じゃなかったこてえ」。明治三十年、東京は上野公園にある西郷隆盛像の除幕式で、未亡人のイトさんがつぶやいた言い分である。
 ものの本によると、西郷は写真ぎらいだったらしく、ほんとうの姿を写したものはない。眉毛の太い角ばった顔付きの、あのおなじみの肖像は、西郷の弟の従道と従兄弟にあたる大山巌をたして、描かれたものだそうである。
 それにしてもイト女とは、明治にして公の場に臨みながら、なんと歯に衣着せぬナウい女性だろう。私は、彼女のこんな気概に惹かれていくのを、抑えられなくなった。
 イト女は一八四三年、薩摩藩士・岩山八郎太の次女として生まれた。二十二歳のとき西郷と結婚、当時としては晩婚型だ。西郷のほうは脂がのる三十八歳。薩摩藩の下級書記官から幾多の試練をのりこえて、倒幕運動のリーダーとなり、薩長同盟をとりむすぶという意気揚々としたところである。
 西郷には若き日、奄美大島に流されたときにできた島妻、愛加那(あいかな)がいた。イト女は西郷の正妻とはいえ二度目の妻である。男性優位の社会にあって、女が涙を呑むのは当然の風潮だったのだろうか。しかし彼女は気丈にも、寅太郎、午次郎、酉三の三人のむすこを儲けている。よくぞと褒めたたえたい。
 当然の風潮に輪をかけたような現実は、新婚三年目にして、つまり一八六八年(明治一年)愛加那の子・菊次郎をひきとって育てていることだ。
 あの平清盛の正室・時子が清盛と側室・常盤との間に生まれた能子を、育てることに共通する。7百年も昔の平安朝における正妻の意地みたいなものが、幕末から明治に変わろうとする近代に、なおも生きる理不尽さのようなものをかみしめてしまう。
 おまけに西郷家には、隆盛の弟やその家族なども同居するという大家族であった。
 なにはともあれイト女はひたすら耐えしのび、中央で活躍する西郷の後顧(こうこ)の憂いなきよう、留守家族をよく守っている。良妻賢母をムネとする典型的な明治の女ではあった。
 その内助が功を奏したにちがいない。
 六八年正月、鳥羽伏見の戦いがはじまる。薩長連合の参謀として新政府軍をひきいる西郷は、幕府軍を一方的に敗走させた。彼が最良の男の花道となったのは、なんといっても同年四月、幕府方勝海舟との会談で、江戸城を無血開城へとみちびいたことであろう。
 やがて明治維新。彼は参議となり今でいう内閣総理大臣にまでのぼりつめる。イト女二十八歳にして夫を最高の政治家にのしあげた。まさに閣僚のトップレディである。
 このあと西郷は外交策をめぐる政府要人との対立から、官職をおり鹿児島に引退した。彼を思慕する反政府派の鹿児島士族にかつぎだされて西南戦争を起こすが、結局城山で自刃。七十七年(明治十)享年五十歳である。
 ここで私は浅虜(せんりょ)とのそしりをうけるかもしれないが、司馬遼太郎の『殉死』を思う。明治天皇に殉死した乃木希典の静子夫人と、西郷イト夫人の生き方をくらべてみる。両女子はともに薩摩藩士の娘、その夫たちの肩書も、外戦内戦のちがいこそあれ同じ陸軍大将だ。
 乃木は明治帝の信任厚く、いかに傾倒し、いかに帝のために「死ぬこと」を美化していたかは、納得できる。しかし静子夫人まで、なぜ夫とともに自害してしまったのだろうか。≪明治も末期、夫に殉じた古風な<妻>がいる。かと思えば、明治の初期、主人の自刃にもめげず立派に自立している<女>がいた≫
 イト女は西南戦争後、西別府の山中にひっそりといきのびた。一九二二年(大正十一)数え年八十歳の天寿をまっとうしている。
 彼女は草葉の陰で、自刃して果てた最愛の夫・隆盛をしのび、さぞかしつぶやいているに違いなかろう。「宿んし(うちの主人)はこげんなお人じゃなかったこてえ」と……。

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蘇我の娘たちの悲哀

  奈良明日香村の甘樫丘(あまかしのおか)の麓に、蘇我入鹿(そがのいるか)邸の可能性が高い遺構がみつかったと、朝日新聞(二〇〇五、十一月十四日付)に載っていた。
 多くの考古学者や歴史ファンを興奮させたとある。日本書紀の大化の改新を裏付ける、有力な「物証」になるかもしれないからだ。
 蘇我氏といえば、古代飛鳥の大化改新(六四五)のクーデター「乙己の変(いつしのへん)」で滅亡してしまった権力者である。
 私は高校のとき日本史で、この時代のことを学んでいた筈なのに、殆ど忘れてしまっている。さっそく歴史書や辞典類と首っぴきで、蘇我家のルーツを訪ねることになった。その中で蘇我の娘たちの浮沈が、なぜか哀しいものに思えてくるのだった。
 蘇我氏の興亡は、稲目(いなめ)、馬子、蝦夷(えみし)、入鹿、の四代にわたる。入鹿のひいじじにあたる稲目は、元・大和国高市郡曾我を本拠とする豪族である。二十八代宣化天皇時代(在位五三五~五三九)は、大臣になるほどの才物でもあった。驚くべきことは、娘の堅塩媛(きたしひめ)と小姉君(おあねのきみ)を同じ欽明天皇に嫁がせるという、人道にはずれたアコギなやり方で天皇家と外戚関係を結んでいる。
 堅塩媛は用明、推古の二天皇を、また小姉君には崇峻天皇を授かった。天皇の母となりえた二人は、まだ幸せといえようか。「親の七光」でむすこの馬子、まごの蝦夷は、ストレートに大臣の出世コースを歩んでいる。
 こうして稲目は、ひまごの入鹿が暗殺されるまでの、百年余りにわたる蘇我家の、ゆるぎなき繁栄のいしずえを築いたことになる。
 さて二代目馬子には、蝦夷のほかに刀自古郎女(とじこのいらつめ)、法提郎女(ほほていのいらつめ)という娘がいた。この娘たちこそ先の叔母君の堅塩媛、小姉君にくらべて、なんと悲運であったことだろうと思えてならない。
 カネと力で朝廷を牛耳り、ときの政治もほしいままの蘇我大臣家で、蝶よ花よと育てられた、いわばイトさんコイさんたち。美しく着飾ってお稽古ごと三昧。年頃ともなると「娘一人に婿八人」の筈なのに……。こともあろうに旧弊な叔母君と同じ道をえらんで、天皇家と縁組している。親の権力、命令にぜったい服従あるのみだったのだろうか。「いくら天皇の親戚筋とはいえ、あの太子って、タイプ(女好き)じゃないわ」「あんなオジン臭い天皇なんて、いやよ」と、自己主張できない女の哀しさ。仮に姉は官人の御曹司を選んだとしよう。妹は、幼なじみで気心の知れた豪農の伜(せがれ)であってもよかったのに。
 刀自古郎女がえらんだお相手は、推古天皇(女帝)の摂政のほまれが高い、聖徳太子である。内外の学問に通じ、深く仏教に帰依し、十七条憲法を作るなど、政治家としては超手腕家だ。が、うわさによれば、太子は女には興味がなく、刀自古郎女にも冷たかったらしい。やっと恵まれたむすこ山背大兄王は、皇位争いで身内の入鹿に殺されている。
 一方、法提郎女は、即位二年目の舒明天皇(三十七歳)の妃となる。もともと舒明には、一つ年下でしっかり者の皇后(のちの皇極天皇)がはべこっていた。さらに中大兄皇子、大海皇子まで儲けている。のちのち彼らは天智天皇、天武天皇となり、堂々と天皇継承者になって花を咲かせた。法提郎女にせっかく授かった古人大兄皇子は、祖父・馬子の願望もむなしく天皇継承は果たされずじまいだ。
 蝦夷と入鹿は、甘樫丘の麓に家を並べて建てた。それぞれを上の宮門(かみのみやかど)、谷の宮門(はざまのみかど)といい子女を王子と呼ばせた。さらに二人の墓を陵(皇室の墓)と称してはばからない傲慢さ。「天皇の地位を脅かそうとしている」として、入鹿はついに中大兄皇子とその一派に殺害された。もはやわが蘇我家もこれまでと、蝦夷は自邸と入鹿邸に火を放って自刃する。
 こうした蘇我家の滅亡とともに、刀自古郎女、法提郎女、の娘たちも、いつしか露と消えてしまっていた。哀れでならない。

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「もしもし 俺やけど」

 人様が定年を迎えようという歳から、老人ホームに勤め始めて足掛け十三年。今や老々介護の「感」強しの私だが、まあ何とかやっている。が、唯一つ気が引けるのは、勤務中に夫が電話をかけてくることだ。ここ半年くらい前からとみに頻繁で困惑している。
「山元さん、ご主人からお電話です」の取次ぎの後に、「もしもし、俺やけど」とくるこの口調。オレオレ詐欺の横行する昨今、その「俺」には惑わされない自信はあるが……。
 ダントツに多い用向きは、「今、○○店で、生きのよい魚を一匹買ったからな」である。
 魚はタイであるかと思えば、ハマチであったり、ヨコワだったり。元来、彼は買い物好き。それもこよなく愛する晩酌の肴を求めて歩く。私の勤め帰りに肴を買わなくてもいいという、忠告なのである。
 こんな彼を責められない弱みが、実はある。かつて私がホームから採用通知を貰ったとき、定年を迎えていた彼は真っ向から反対。女房のいない不便さ(昭和一桁(ひとけた)生まれの男の横暴か)が支配したらしい。一方、私は夜学で福祉を学び、この道に進もうともう決めていた。話し合った末、「ホームへはいつ訪ねて来てもよし、電話もよし」。こんな他愛も無い「協約」で、納得したような事情があった。
 この十月半ばの昼下がり。いつもの「もしもし、俺やけど」は、案に相違していささか緊張した声音。思わず受話器を握り直した。
「えつ、肝臓で緊急入院したって。それ、どういうことなの!」。オレオレ詐欺の新手かと思ったが、疑っている場合じゃなさそうだ。
 けさ心臓の定期健診で総合病院へ行ったのは確かだ。そのほうは異常なかったのに、数日前微熱があり、町医者の薬ですぐ治まったことを話した。それではと血液検査をしたら肝臓の数値が異常に高い。緊急入院せよ、と足止めをくらったのである。
 私は取るものも取り敢えず病院へ自転車をとばし、病室を探し当てた。まもなく華奢(きゃしゃ)で若い主治医が入ってこられる。胆管炎の疑いあり、一週間後にMRCPの検査をする。それまで絶食し点滴をつづける等々、丁寧なご説明。承諾書にもハンコを押す。否応無く権力に服従せざるを得ないような時の流れ。
 さすが入院嫌いの彼も観念しているかに見えた。休肝日もなく酒を呑む者の成れの果てか、とも思える。が、今更責めてどうなる。彼を≪奪回≫するための努力と辛抱あるのみと言い聞かされるほかない。ところがである。
 入院して三日後の午後八時。わが家の電話がけたたましく鳴り響く。この「もしもし、俺やけど」は、怒り心頭に発する様相である。「すぐ迎えに来てほしい。退院だ。こんな病院にはおれん!」が辛うじて聞き取れる。「いい加減にしてよ」とぼやきながら、夜の路地裏を斜交いに病院へと走らねばならない。
 連日の点滴で腹部が膨張し、浣腸剤を頼んだのに、三十分も遅れて看護師が下剤を押し付けてきた。下剤は如何に合わないか、カルテにある筈というのが彼の言い分。対する主治医はその対処の誤りを平信低頭にわびた上で、人道的にも退院は許可できないと、「退院」を主張する患者とは平行線のままだ。
 無理無体な言い分の夫が憎らしい。必死の説得も聞き入れようとしない。結局、一週間後のMRCPは必ず受けることを条件に、退院は許可された。私は主治医に深謝し、こん形で≪奪回≫することの悔しさを噛みしめながら、彼とともに病院を後にした。
 退院後、三分粥から八分粥へと、それに見合うお菜作りに苦心しながら、何とも心もとなかった。が、その心配をよそに彼には生気が漲りはじめた。体のメカニズムはどうなっているのか。MRCPも一ヶ月先に延びた。
 このところ陶芸に没頭だ。昨日は「もしもし、俺やけど。会心の花瓶ができたよ」と嬉しげだった。やえやれ疲れる。はた迷惑を考えず、呆れるほどに本音で生きる御仁である。

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安井道頓に会いたくて

  盂蘭盆(うらぼん)の日。ご先祖の墓参りに行こうという夫に顰蹙(ひんしゅく)を買いながら、私は道頓堀へ行くといって別々の電車に乗った。ふと安井道頓に会いたくなった。きょうなら精霊仲間と彼の世から帰っていて会える気がしたからだ。
 戎橋に着くとおりしも架替工事中であった。すぐの横にある仮橋は、押すな押すなの人出。川の両岸辺にはテラスのような遊歩道が、上手の太左衛門橋へのびている。そぞろ歩きする日傘や帽子姿。ピーチパラソルの影でジベタリアンをきめこむ若者ら。繁華街の水辺空間は、暑気にうだる人々を開放感に浸らせている。こんな光景に目を細めて満足げな道頓の顔が、川面にゆらいでみえる。
 安井道頓は河内久宝寺の豪族である。
 父・定正とともに豊臣秀吉につかえ、大阪城造営に尽力して、その褒美に城南の地を賜ったという。
 もともとこの地に梅津川が流れていた。
 川とは名ばかりの小流で、大雨でも降ればたちどころに溢れ、ぐるりの野原は水浸し。そこで一念発起した道頓。湿地帯の水捌けをよくし、水運を図り、城下町に反映させてやろうと……。いとこの安井九兵衛(道卜(どうぼく))、親類の平野藤次をはじめ久宝寺の農民をよびよせた。私財を投げうった。梅津川を拡張し、東横堀川から木津川にいたる河川開削工事に着手した。慶長十七(一六一二)年である。
 ところが工事半ばにして大坂の陣がはじまり、道頓はあえなく戦死。のち九兵衛らが道頓の遺志をついで工事をつづけ、元和元年(一六一五)年に完成した。のち徳川の世で大坂城主となった松平忠明は、道頓をあわれみその名をとって道頓堀と名付けた。
 道頓堀川の通説である。私は子供のころに教わったが、いったん脳裏に焼きついたものは容易に離れようとしない。
 それにして昔の人はえらいと思う。堀を開削するにはそれだけの富もいるが、技術も必要だろう。安井一族はカネだけではなくワザも合わせもつ豪族中の豪族だったのだ。
 そんな道頓の地位逆転・失墜のときがやってきたのは、昭和四十年代はじめであった。
 子孫である安井さんが大阪市を相手にして、道頓堀の所有権を主張して訴えをおこされた。『道頓堀裁判』(牧英正著)がそれである。
 裁判がきっかけで、あるお偉い学者先生の主張がいっきに浮上した。かねてより道頓は成安(なりやす)道頓のほうであると、安井説は否定されていたらしい。
 成安氏は平野の七名家の一つである。今も残る系図や古文書に、はっきりと道頓堀の開削に携わったことが明記されているという。
 裁判は十一年余りの歳月をかけて昭和五十一年十月、安井さんが敗訴した。以来、成安説は、学者や知識人はもちろん普通の大阪人にも、浸透しつつあると知る。
 大体、江戸から三百六十年余も経ってから、あれは「間違ってました」「人違いでした」といわれても、簡単に改められるだろうか。
 いつものコースである千日前の三津寺墓地(松林庵)へと、私の足は向いていた。
 庵を入って正面奥に、二メートルほどの五輪塔「贈従五位、安井道頓居士・安井道卜居士」が、十年一日のごとく建っている。ユリの花、缶入りのお酒とお茶が供えられている。「贈従五位」の文字は後年の加筆だとか、ほんとうは四代九兵衛のために建てられたものであるとか、不思議さはあるものの、大方は道頓の墓と信じてきた。
 私は道頓堀川にもどり、日本橋北詰の東角にやってくる。安井道卜の元屋敷跡である。背高い石碑が建っている。前面に「贈従五位安井道頓安井道卜紀功碑」。背面には二人の功績をたたえているという、難しい漢文の碑文。大正十四年近くの町々や隣組有志の浄財で作られたものだ。
 墓にせよこの紀功碑にせよ、成安説が浸透しつつある現代、訂正、撤去もなく残るのは、通説を捨て切れないあらわれではなかろうか。と、凡人の私はついつい思ってしまう。
 にっぽんばしから燈籠流しで道頓を見送ることにしよう。私の中の燈籠は、右にゆれ、左にゆれて、ゆらゆらと。ともすれば川波に呑まれそうになりながら木津川へ、さらには大阪湾の荒波に揉まれるだろう。決して灯火を消すことがないようにと祈った。

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山、清流に囲まれた町で

 拝啓 岐阜県郡上八幡町・観光課様


 突然の書状を差し上げる失礼をお許しください。私は大阪在住で、この八月上旬、私の夫と一緒に御地を観光した者でございます。
 東京の娘一家と恒例の温泉旅行で、今夏は『飛騨・高山で会いましょう』との合言葉で、その一日を過ごし、翌朝、高山から蛭ヶ野高原までドライブしました。私たちはここで一家と別れ、すぐ南に位置します郡上八幡を訪れるのが、かねてよりの予定でした。
 私たちが夫の定年を機に、かねがね興味を抱いていた大阪の川を訪ね歩いて、二年半がたちます。川のようすを私が文章に夫は写真にと、お互いに好きなことの二人三脚で記録しつづけております。この関係で、マスコミによく登場する御地、吉田川の清流のすばらしさには、憧憬の念を抱いていたのです。
 折しも八月上旬は御地名物の「郡上踊り」の最盛期のこととて、宿の予約をとるのに難渋しました。やむなく貴課に泣きついて確保して頂いたような次第でございました。
 ところで郡上八幡での夜、民宿で夕食も終えやれやれと一息ついたときでした。突然、夫が咳き込みはじめました。喘息の発作です。一瞬、目の前が真っ暗になりました。「大丈夫や、すぐおさまる」と夫は、私を心配させまいと強気でした。でも、私は「病院を探してくる」と部屋を出ました。即、救急車というのは夫の逆撫でになります。民宿の主人に尋ねると、近くに病院があるにはあるが、電話番号はわからないと言われます。
 夫の場合、病院があっても、万一のときのためにメモしていた「ソリターT3」「ネオフィリン」の点滴薬がなければ、何にもなりません。私は闇雲に夜の町へ飛び出しました。川探訪では、文章とカメラの視点が違って離れ離れになってしまい、よく喧嘩します。が、この喧嘩仲間をこの山中で失いたくない、と切羽詰った思いで一杯でした。
 やがてぼんやりした明かりの中に「新生会・八幡病院」がありました。たまたま居合わせた看護婦さんに「ソリターとネオフィリンがありますか?主人が喘息の発作で……」と私は唐突に叫びました。「同じのはありませんが似たものなら……」。彼女の答えは実に機敏でした。私は胸が熱くなりました。
 朗報をもって引き返していきますと、民宿近くの道端に人のうずくまる気配がします。よく見ると夫でした。私のあとを追っかけてきたが、それ以上歩けないでいたのです。再び病院へととってかえし車椅子を頼みました。
 それから二時間余の病院の対応は、旅人でトビコミの私たちでしたのに、実に気持ちよく適切そのものでした。気がついたら当日は日曜日、しかもそんな夜間です。夫を診察してくれた当直医は四十歳くらい、看護婦さんは長い髪の美しい方でした。ちなみに、そのときのカルテ番号は六九一〇です。
 嘘のように元気を取り戻した夫と、翌日は予定通りの観光をして帰路につきました。あの吉田川上流での、斜面をなす川床一杯を透き通るような清流が朝陽に光り、高らかな音を立てる光景が、今でも目に浮かびます。
 早速、この喜びをお手紙にと思いつつ、はや四か月も経ち、師走となりました。あれ以来、夫はやはり通院治療しておりましたが、最近では、前にもましての健康をとり戻せております。御地は山深い盆地にありますが、想像もつかないような活気のある城下町でした。そしてあの涌き水と清流。そこに育まれた人々。ソリター、ネオフィリンは当然のごとく常備されていたわけですが、その出会いは、不思議な縁としか思えません。
 私たちは淀川の岸辺に住んでいます。眼下の川面には、早くも北国からカモが群れをなして渡ってきました。その横の堤防でクラブを振る夫。まもなく平成四年は暮れようとしています。こんなありきたりなときの流れを、今ほど心に染みたことはありません。

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お洒落 and 恋心

 ミッチーこと倉田美智子さんは、私の友人だが、年の頃は四十半ば。長身で、ふさふさした髪の毛が、いつも背中に揺れている、とっても、お洒落好きな才女である。
 ミッチーと知り合ったのは、今から一年半前。私が社会福祉主事の勉強で、共に机を並べたときからで、いわば、志を同じくする仲間だった。あの頃から感じていたのだが、ミッチーは不思議なくらいサービス精神の旺盛な人だった。喜んで貰えるのがうれしいと、誰よりも早目に来て、気の合う仲間に、熱いお茶をお菓子付きでふるまったりした。そんな心遣いは枚挙にいとまがない。
 また、一年間の課程の終わって終了式という日、ミッチーが仲間にサイン帳をまわし、生年月日も是非にと頼み歩く姿を見て、正直なところ、少女趣味だなァと思っていた。ところが彼女、それ以来、仲間の誕生日がくると、電話でお祝いのメッセージを送っているという。この勇気ある行動に、仲間は「生」の喜びを倍加させているに違いない。と、まあ、こんな風に、今どき珍しく洒落たことをやってのける女史なのである。
 ところで十月初旬のある夜、わが家の電話が鳴って、突然「あんちゃん(私のこと)、おめでとう。もじきお誕生日ね」とミッチーの明るい声がとびこんだ。年甲斐もなく、胸に熱いモノが込み上げてくる。やっぱりうれしいものだ。紛れもなく十月二十五日は、私の五十九歳の誕生日。「明日、ちょっと早目のお祝いに、近鉄劇場へ誘いたいのよ。でも気を遣わないで。入場券は頂いたものだから」。映画・芝居好きの私と知っての、心にくいばかりの配慮に、私は有頂天だった。
 上六の近鉄劇場は開幕を前にして満席だった。でも「二扉I列 三十四と三十五番」だけは、ぽっかり二人を待っていた。芝居は、東宝現代劇十月特別公演と銘打つ、佐藤愛子原作『夕やけ小やけで、まだ日は暮れぬ』だった。
 実業家の夫に先立たれた松子(京マチ子)が、家族のわずらわしさを避けて、芦屋の家から白浜の別荘へやってくる。そこへ女学校時代の親友玉枝が、恩師松丸先生を連れて現れる。先生は六十九歳で未婚。結局、松子は先生と同居するはめになる。玉枝は夫・子供・孫まであるといった想定。こうした三人三様の熟年女が、いかに生きるかの問いかけの物語である。
 先生が痛快であった。口紅はオレンジ色、髪はまっ黒に染め、鮮やかな色模様の洋服をまとうといった派手好み。その上老いらくの恋に執念を燃やしている。明るくて、花にたろえれば、芍薬か牡丹。男性に憧憬と魅惑の念を掻き立てる。松子は、遺産相続だ生前贈与だのと騒ぎ立てる子供や孫よりも、この恩師と別荘での暮らしを選ぶ。
 熟年女のほんとの幸せは何だろうか。気の合った者同士、暮らすのもよいではないか。お洒落をすべし。恋もまたいい。先生の恋の行方は哀歓に、充ちているが、見ていても楽しくてしかたがない。私たち女性のもつ潜在的願望が、体現されているからだろう。
 また、三人の女性がそれぞれに美しい。京マチ子をはじめとする、女優本来の美貌や照明効果を差し引いたとしても、その思いはまだ強い。何故だろう。やはり、ドラマは強調されるセリフの洒落っ気が、観客に美しく感じさせていると思えるのである。
 お洒落なミッチーからお洒落な贈り物を頂いたものだ。私も、さりげなくお洒落なお返しを考えなくては。ドラマに滲み出る『お洒落』(私のは、せいぜい、髪をなでつけ口紅を忘れない程度かもね。洒落っ気のあるライフスタイル。内面的なお洒落。いいエッセーを書きたい。etc.)と『恋心』(誰かが言ってた。恋は自由だと……)を持ちたいものである。
 図らずも再認識した『お洒落and恋心』に、わくわくしている私めである。

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夕焼け空の交通ラッシュ

銀翼を輝かせてジェット機が
夕焼け空を飛んでいく。
わたしの住む新淀川のほとりの
高層マンションすれすれを
対岸の十三の町の上を
南東から北西へ
いつもきまって同じ方向
飛行機の行き着くところは伊丹の空港。
着陸態勢に入った機体は
寸分たがわず
落ち着きはらって堂々と
みるみる高度を下げて飛んでいく。

追っかけるように又一機
こんどは一回りでっかいジャル・パック。
ゴオー、ゴオー、と四つのエンジン音を
夕空いっぱいに轟かせながら悠然と
空港のある北摂の山懐へと飛んでいく。

ジャル・パックのさらに上空を
木の葉が泳ぐように又一機が飛んでくる。
ローカル線のYS11型機
二十年前の新型機が
ひらひら、ひらひら、と危なっかしく
それでもジェット機に
負けじとばかりに飛んでいく。

申し合わせたように四台目五台目と
空はひばりや鳩やすずめも飛び交って
交通ラッシュ。
夕陽は西の空に消えたけど
その余韻を残した夜空に
線香花火のような
赤、黄、青の灯を靡(なび)かせて
帰宅の遅れた幼子のように
われもわれもと門限へ向けて
山懐へと駆け込んでいく。
バブルも倒産も我関せずと
さもこの国が繁栄を象徴するように。

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生きた鰯の目

 家族ぐるみで大阪から疎開した私は、愛媛県新居浜郡にある半農半漁の村の国民学校へ二度目の転校をしていた。あれは二学期が始まってまもなくの授業中であった。
「……あんずさんの目を見てみんかい、生きた鰯の目のように輝いとーる。みんなのはどうぞね、死んだ鰯の目のようぞな……」
 六年梅組担任の佐々木冨久先生が、突然、こう言われたので、級友たちは一斉に騒ぎだした。引き合いに出された私は青天(せいてん)の霹靂(へきれき)で、なぜこんな乱暴な言い方をされたのかさっぱり分からない。ただ想像できるのは、この真夏日に迎えた終戦。子供たちも荒れ地を開墾したり、河原からの石運びや武道のけいこにも必死だった。すべてが徒労に終わり脱力感におおわれていたのだ。
 私がもし生きた鰯の目のようだというならば、それは、この七月に母が子宮筋腫の手術をして病院から生還してきたからだ。また、出征して中国と台湾にいるという二人の兄が、終戦で必ず帰ってくる。そしたら、この田舎でのどん底生活から抜け出せる。単純にそう信じていたからに違いない。
 その日、私が下校しようと校門まで来たとき、外側で私に冷たい視線を向けているグループに気がついた。梅組でも親分肌のカメさん、その子分格の玉ちゃん、和ちゃん、ヨウちゃんの四人組だった。いつも帰る方向が同じだがこの気配はただ事ではない。私が校門前の県道を帰りかけようとすると、がやがやと四人組もついてくる。急ぐと向こうも急ぐ。
「やーい、やーい、あんずさんの目は生きた鰯の目エ、うちらは死んだ鰯の目ェ」と、嘲罵(ののしる)するように連呼する。私はとっさに怖くなって走りだした。
 県道の両側の稲穂が風に揺れて、私に声援の旗を振るようにつづいていた。もんぺとブラウス姿にかばんを脇に抱え、それに祖母が編んだわら草履をはいていた。わら草履は軽く、これもまた祖母が励ますようだ。気ばかり焦って両足が絡まりそうになる。おまけに、前夜の雨含みの県道で草履がだんだん重くなり、やたらに小石や砂を後足へ跳ね上げる。それでも一気に五、六百メートルくらいを走ったが、四人組も影絵のようについてきた。駅前の家まであと五百メートル。心臓が躍りだしもう走れなくなった。
 目前に小さな川があった。ここからの県道は登り坂になっていて、四国山脈の裾野とはいえ平地よりは一段と高いところに造られた駅のある通りにつないでいた。このまま坂道を行くのは苦しいし、川を上手にとっても余計に不利になる。たった一つ、川沿いに下だるしかないが、この土手は今まで通ったことがない。すぐの向こう岸に避病院があるからだ。伝染病の隔離病舎で、あそこには近寄るなと日頃から聞かされていた。咄嗟(とっさ)に私はここへ逃げ込むことにした。一本の木橋をわたりずらりと並ぶ病舎の裏手にまわった。
 建物はひどく荒れ果てて、ひとっけはもちろんない。慌てたトカゲが数匹、叢(くさむら)から跳び出して、一瞬、息の止まる思いがした。雑草が生い茂り硝子窓は割れ、中を覗くと床は落ちて消毒薬が白くこびりついている。壊れた病室越しに県道を見たら、四人組がこちらを睨んでいて再び緊張した。一分くらい睨みあっていただろうか。避病院に逃げ込んだ哀れな小羊に武士の情をかけたとでもいうのか、四人組は悠々と県道を帰っていくではないか。その途端、私は足元の叢にへなへなっと座り込んでしまった。
 翌日、学校では私と四人組の話でもちきりになっていた。この敗走劇を校舎の屋上から見ていた生徒がいたためである。その悔しさ恥ずかしさをバネに、私はそれからの受験勉強に拍車をかけていた。明けて昭和二十一年春、東予でも名門の一つと言われた県立の高等女学校に合格。四人組とは別れたが、あの避病院での気味の悪さは、当分、忘れられなかった。

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落としたお金、拾った自然

 決してお金に執着がないというわけではない。それどころか、人一倍執着が強いと思える御仁(ごじん)なのに、私の夫はよくお金をお落としになる。大蔵省の日本銀行券は、落としたら最後、すたこら歩き出して他人さまの元にいき、そこで、いくら私のモノだと言い張っても証拠になるものは何もありわしない。夫がこれまでに落とした状況を思い出してみると、その根本的な原因は、管理がおおざっぱなということになりそうだ。阿呆(あほう)な奴、そんな落としたことをいちいち女房に言う奴があるか、と、男性諸氏から夫は非難されそうだが、そこはそれ、何事も内緒にできないのが、わが愛すべき夫の性格というところか……。この間(と言っても昨秋のことになるが)も、夫が外出から慌てて帰ってきた。只今とも言わずに部屋に駆け込むや、上着やズボンをパタンパタン叩きはじめ、次にポケットの中身を全部ほうり出して、おかしい、やっぱり無い八千円が無い、と、のたもうた。また随分はんぱなお金を、どこで落としたんですか?と聞くと、そんなん分かっていたら誰も苦労せんわい、すーごく低気圧なので、それもご尤(もっと)もだと、しばらく傍観をきめこんでいた。
 やがて自分に納得させるようにつぶやいたのによると、あの店で一万円出して八千円の釣り銭を貰った。そのまま四つに折って、財布の入っているズボンのポケットにじかにねじこんだ。次の店の買物のとき、財布をとりだして支払った。ああ、くそー、あのときに八千円が勝手にとびだしやがったなあー。
 ざっとこんな調子である。落したものは仕方がないのにどうも諦めがわるい。八千円が八万円だって怪我をしたと思えば……と私は慰めにかかるが、お金ではない自分の迂闊(うかつ)さ加減に腹が立つんだとか何とか、悔しそうに言われる。それが又かわいそうでもあって、私は晩酌のアテを一、二品ふやしたりとか、機嫌をとるのに相つとめるのである。
 こんなことがあって半月後、いや一週間くらいだったか、東京の娘から電話がかかり、北海道観光から無事に帰ってきたが、向こうでお金を拾ったのよ、と付け加えて言った。この皮肉な偶然性に、私はほくそ笑まずにはおれなかった。娘の話はこういうことだ。
 知床半島の根っこの部分にある斜里という町へやってきた。すぐの北面は視界一杯にひろがる網走湾、その奥はオホーツク海へとつながっている。この雄大な海原に注ぐ斜里川のほとりに佇む(たたずむ)と、そのときを盛りに鮭の大群が遡上していた。産卵のための涙ぐましい姿に、観光客は誰もが魅せられている。娘たちはこの鮭を追っかけようと、堤防を上手へと歩きだした。まもなく、一緒に歩く孫娘が、これ拾ったと母親(私の娘のこと)にさしだしたモノがある。それは紛れもなく福沢諭吉の一万円札。同じように歩く誰かが落としたに違いないが、鮭に夢中になって振り返る人もない。交番に届けようかと思ったが、結局、遡上する鮭のお恵みと、頂くことにしたという。
 さて、また斜里の町中に戻ってみて珍しいことを耳にした。この斜里よりずっと奥にあるウトロの山の植林を、百㎡あたり八千円でオーナー募集しているという。近ごろの乱開発を防ぎ自然環境を守るための、立ち木トラスト運動の類いであろう。斜里町役場が受け持ち、すでに三万何千人かのオーナーがいるそうだ。娘は拾ったお金で、この植林を一口買ったのだと高らかに自慢した。
 これを聞いた夫は、うちの女どもはがめつい。ばあさん(私のこと)から孫まで血統書付やなあと、軽蔑の眼で言った。分かってる、花より団子なのである。なんと罵(ののし)られようと、ここは一つ北海道旅行を兼ねて、オーナー然とウトロの山に行ってこなければなるまい。夫の落とした八千円が北海道の自然で返ってくるなんて、こんな妙味があるから、やっぱり人間業はやめられないと思った。

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ボリショイサーカスを見て

  所用があって東京へ行ったら、ボリショイサーカスがきているというので見にいくことにした。久し振りに童心にかえりたかったし、ソ連邦消滅が伝えられる中、ようこそ、との思いがあったからである。
 東京ドーム前特設テント内は、立ち見客も押しかけて超満員だった。開幕と同時にシーソー・アクロバット、イリュジョン(魔術)などとプログラムは展開したが、まず驚いたのは演技者のことである。男も女もつぎからつぎへと出てくる。揃って美しくしまった筋肉と均整のとれた体型で実にきびきびしている。それに意外と小柄な人もいる。テレビで見かける大柄で豊満なあのイメージのソ連人ではない。どういうことだろう。よくよく見ると金髪の西洋系の人がいるかと思うと、日本人と同じ黒髪をした人もいるのではないか。
 こんな彼らが和気藹藹(わきあいあい)と、オリンピックの体操のような絶技を披露してくれる。これは単なるサーカスではないぞ、と思った。
 サーカスのちらしによると、なんでも団員は七千五百名、今回そのうち五十名ほどが出演している。殆どが国立サーカス専門学校の出身者だが、この学校に入るのに全国各地から集まりその競争率が三十倍以上だそうだ。あらためて世界大百科事典『ソヴェト連邦』を引っ張ってみると、ロシア人を筆頭にユダヤ人、北方諸族、中国人とその数約二百近い民族から成り立つとある。他民族とは知っていたが、なりほど、彼らの多彩ぶりとエリートぶりが納得できるわけである。
 つぎに彼らと共演する動物が、猿、鶏、犬、猫など人間と共存するものばかりなのに気がつく。唯一、動物らしい動物が出てくるのは三匹の熊だけで、それも私はぬいぐるみかと間違うくらいおとなしかった。その熊が人間並にアクロバットとダンス、それに輪投げまでするのだから、ほのぼのした親近感が沸いてくる。
 三年ほど前、私は大阪にやってきたラスベガスの『ツムラ・イリージェン』というのを見たことがる。これはマジックショーだったが、場内に煙がたちこめレーザー光線がまたたく中、人間よりもむしろ動物が主役とばかりに出てきた。ただ、あのときライオンや虎や象が狭い舞台に頻繁に現れて、なんとも落ちつかなかったものである。アメリカの豪華、絢爛さに比べて、ソ連のこれはなんと素朴さの漂う光景であろう。この農村的な雰囲気と洗練された都会的な演技とが不思議にマッチして、観客をぐいぐいと引き込んでいく。やはり効果的な演出ということだろう。
 一番の見せ場だと思ったのは、やっぱり空中ぶらんこで、ここでも演出のうまさが際立っていた。空中で向かい合う二組の演技者がゆっくりぶらんこに揺れる。相方のぶらんこに手渡りしていく技は、絶対に失敗は許されない筈である。場内の観客がしんとなって見守る中、間一髪のところでのっけから失敗を演ずる。それは巧みにである。みんな思わず息をのむ。演技者は二十メートルはあるだろう空中から落下し、もちろん網の上だが、二、三回跳ね返ってむっくと起き上がる。この失敗を見破らないように二回目も三回目もやってのけ、みんなを失望させておきながらつぎは一気に成功させる。場内に割れるような拍手が巻き起こる。この呼吸を引き取るように、成功を連続させて観客の気分を最高潮にもっていく。この演出ぶりは心にくいばかりである。こう言いながらも、どっぷりと私もその興奮に使っていた。
 サーカスを見たその日(平成三年十二月二二日)の新聞に、又ソ連のニュースが出ていた。『国家共同体を創設』(朝日)、いよいよソ連邦六十九年の歴史に幕がおりたと報じられている。あの笑みを浮かべた演技者たちの身分は?何にもまして、彼らの心はどこへ帰るのだろうか、と思った。

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ご招待にはご招待を

  九月初旬のこと。晩酌でほろ酔い機嫌の夫は、掛かってきた娘からの電話のことで、ぼやきはじめたのです。
 馬鹿にしとる、誰がおじいちゃんやねん。あんたはおばあちゃんに間違いないけど、ぼくは、まだ六十云歳の壮春真っ只中。敬老の日に保育園で『おじいちゃんおばあちゃん、ありがとうパーティー』があるから来いやなんて。何が悲しうて東京くんだりまで行かんならん。子供が遊戯と太鼓叩きで出るからぜひになんて親馬鹿もええとこ。ちょっと梅田から天王寺までとは訳が違うんやで……。
 という風に大変な鼻息なんです。ですが、どうもうちの殿方は現実的で夢がございません。私のほうはついてに話題の新都庁舎にも行けるとほくそ笑むのですが、入り込む隙もないくらいの権幕でぼやきはつづきます。
 一体、交通費と労力と時間はどうなるんや。あんたと二人エコノミー切符で往復四万数千円かけて東京駅へ、それから山手線に乗って西武池袋線に乗って満員バスに乗ってしめて五時間。すぐ隣は埼玉県やないか。ああ、不便不便。何であんな辺地に嫁にやった、あのときあんたが娘の肩を持ったからこんなことになったんや。東京へなんか行くもんか。
ところで夫は定年後から陶芸を習ってまして、歪なのから斑なのからぐい呑みから花瓶の類まで、うさぎ小屋のわが家に鎮座まします有様。あのぼやきから二・三日後のことでした。夫は大きな一つの壷を抱えて帰り、これぞかつてない傑作品、先生も褒めて下さった、来る十五日の文化祭に出品するぞと大変なご機嫌。ここで夫はひざをポンと叩き、さあ娘に見せたい招待するんだと受話器を握りました。即、娘は断ったというのです。なのに清々とした顔付きで負け惜しみを言いました。この間の仕返しをしてやった!と。
 この父娘の確執たるや。この不完全子離れの親にしてこの不完全親離れの娘あり、ああやるまじきは娘を転勤族にという事か。

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釣書の字

 定年を迎えた私の夫は、これからの生きがいを求めて模索中です。その夫が先日、『習字をならいに行く!』と言い出したものですから、思わず噴き出し、うろたえました。
 夫は毛筆・硬筆ともに字を書かないできました。そう、書けないのではなく書かないだけです。今どきそんな人、いるの?と言われそうですね。だけど、夫は過去から現在に至るも、恐らく未来にかけても永遠に、私を妻にしている限りは書かないでしょうよ。それには、こんな暗黙の了解があるからです。
 二人はごく普通のお見合結婚でした。最初に「釣書」なるものをお渡ししましたが、彼からはまいりませんでした。さては、男性の横暴!と不満でしたが、何分、封建制のなごりをとどめる昭和三十年初期のこと。結局、彼については仲人口を信じてお見合を、三ヵ月後には結婚というスピードぶり。
 ところで、新婚まもなく夫が白状したのによりますと、私の渡した釣書の毛筆の字を見た途端「これにしよう」と決めていたんですって!。決して私の字がうまいとは思いません。きっと彼自身よりマシだったに過ぎないのですよ。妻たる者を選ぶのに、美貌とか気立てとか優しさとか……あるでしょう。それを字で選ぶなんて、やっぱり物好き!。
 とは言え、その物好きのお陰で、私は妻の座にありつけたのです。ひたすら夫の書記役を務めてまいりました。年賀状や電話のない時代は親戚、友人への書簡など。夫の仕事は技術系です。さりとて、書くことは避けて通れません。今だから言えることに、簡単な図面から出庫伝票や作業日報(一日遅れに提出)、課員の勤務評定など、さまざまでした。
 せっかくの『習字を……』ですが思い止まって頂きます。だって、もしも熟達されようものなら私は妻の座から失業です。一九九〇年は国連『識字年』。それを逆なでするような夫で、わが家の平衡が保たれているのです。

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麦畑の香り

  「もう自転車に乗るな」。私の夫の口癖です。氾濫する車、蜂の巣をつついたような違法駐輪。体の為にも歩けと言うのです。そりゃ私にだって分かります。だからといってその後のセリフが気に入りません。あんたは年、幾つやねん。六十にも近うなって。第一、乗ってる姿は、あれなんや。危なっかしゅうて見てられへん。大きなお世話なんですよ。
 思えば昭和二十一年、終戦のどさくさと何もかも貧しい中で、十二歳の私は小さな希望の星を見つけたのです。瀬戸の海に沿って入浜式の塩田が、反対側には、SLの煙を吐く四国山脈の麓まで青々とした麦畑が広がって見えます。その中央を凸凹な県道が走ります。バスが砂埃をあげ、肥たごを積んだ牛・馬車がガタゴトと通り過ぎます。こんな光景の中で、私は自転車乗りに挑戦したのです。大人用の自転車にチビの私では、いわゆる三角乗りしか出来ません。乗ってもすぐ疲れます。乗っては歩き、歩いては乗るの繰り返し。村人がくすくす笑って振り向きます。
 ある日の事。三角乗りで一気に風を切りました。走る、走る、天にも上ぼる心地でしたのに、にゅっと荷車の馬さんと鉢合わせ。あっと叫んだ途端、気がついたら自転車もろとも麦畑に。葉っぱや茎をなぎ倒し、まるでキッスをした形で私は転がっていました。漂う自然の香りに酔いました。それ以来です。自転車の腕がめきめき上がったのは……。
 その年入った女学校では、茶の湯、礼法で楚々とした身嗜みを教わりました。でも、うちに帰ると性懲りもなく自転車にまたがっていました。学生改革とやらで高校に転校してからは自転車通学。もう得意の絶頂です。田圃の畦を近道します。雨の日、左手にハンドル右手に破れ傘、ひどい泥濘(ぬかるみ)をサーカスの曲芸さながらです。あれから四十年。お願いだから「自転車をおりろ」なんて、野暮なことは言わないで。麦畑にキッスしたあの香りが今も甦るのです。

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ミシンの価値

 NHKのテレビ放送で「海を渡った中古ミシン」というのがあった。使われなくなった足踏みや携帯用ミシンを、日本の業者が補修してベトナムへ贈りつづけているという話。戦争に傷ついた女性たちの自立に役立っているという。足踏みミシンといえば、私の疎開時代を思い出す。
 太平洋戦争の頃、私は大阪港区に住んでいたが、きょうだいが八人、両親合わせて十人家族。毎日割れ返るような賑やかさだった。その平和を破ったのが、警官をする長兄と造船所に勤める次兄にきた二枚の赤紙。ついで二人の姉が嫁いでいった事情もあって、瞬く間に四人も働き手の兄姉がいなくなった。日一日と戦雲が濃くなる。私も小学校で学童疎開の準備が始まった。不安になった父は、残った十五歳を頭に四人の子供と母を連れて、愛媛のふるさとへ疎開すると言い出した。昭和十九年六月だった。
 疎開はしたもののこれというツテがあったわけではない。三十年もはしけ乗りだった父は、陸(おか)に上がったカッパも同然で定職が見つからない。魚の行商を始めた。住まいは、ある素封家(そほうか)の納屋。そこに大阪からの家財道具が一切(いっさい)合切(がっさい)、たんす、水屋(=食器棚)は言うに及ばず、石臼、植木鉢、たきぎに至るまでが所狭しと同居したが、めぼしいものは何もなかった。ただ、その中でピカっと光っていたのが一台の足踏みミシン。かなりの中古品だが、わが家で活発に動いていたのである。
 あの頃、衣料品も御多分に漏れず逼迫(ひっぱく)。配給のくじ引きでは、お目当ての上着やシャツのかわりに軍手、タオルくらいしか当たらない。気の利いた着物は物々交換で米や醤油に消えた。そこでミシンがフル回転。母と三番目の姉は、布団のカバーをつぶして家族の下着を縫い、銘仙の着物をモンペ上下に仕立て直し。夏のカンタン服は近所の子からハイカラだと羨ましがられた。また、縫い物もよくした。一部屋しかない住まいには、朝から夜遅くまで、ミシンの音が生活のリズムとして響いていた。
 田舎での二度目の夏がきた。やがて終戦になろうとは夢にも思わなかった。母がどうした訳か、急に痩せはじめ生気のない顔色をしているのに気がついた。「お母さんが町の病院へ入院することになったのよ。」と、姉が耳打ちしてくれた。「『しきゅうきんしゅ』という病気でね。手術しないと大変なことに」。その病名は十一歳の私には理解できなかった。放っておくと母が危ないことのほうが切実で、小さな胸は張り裂けそうだった。母が助かるためなら、天秤棒で井戸水を漉し台へ運ぶことだって、開墾した山地の水やりだって、水辺のセリ取りだって、母のやっていたことを何でもするわと、私は心に誓っていた。
 母が入院するという日、不審なことに出合った。見知らぬ男がリヤカーに、うちのミシンを悠然と積んで立ち去ったのだ。二週間ほどして母は元気になって帰ってきた。薄手の着物をまとう姿は、まだまだ弱々しい感じがしたが、その笑顔の確かさに私はほっとした。だがミシンはもう戻らなかった。なんでも予想以上に高く買われていき、そのお陰で母が入院、元気になれたのだから仕方がなかったと、姉が後になって教えてくれた。
 ベトナムに送られたミシンは八百台余り。町の集会所で講習を受け、自信の持てた者から自立していく。ミシン一台あれば家族が養え、二台あれば店がもてるという。一台の中古ミシンが母を救ったあの時代と似ている。今、うちには二台の携帯用がある。私の嫁入り道具の足踏みをお払い箱にして買ったスタンダード型と、セールスマンに強引に売りつけられた多機能型。これを売るとなると、もはや二束三文。治療費の足しにもならない。この不均衡ぶりはどこから?やっぱりミシンの価値は、機械よりも活用の仕方ということか。複雑な気持ちである。

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花博(大阪国際花と緑の博覧会 1990年)が私に残したもの(1)

 お盆のころ、花博に二度ばかり出向いて行ったが、私は癖へきしていた。会場に着くと、ついつい人気のある「街のエリア」に足を向けてしまう。パピリオンに入るために、炎天下を一時間から二時間近くひたすらに並んで待つ。要領の悪い私などは、これだけで疲れはてる。ほかを見て回るエネルギーさえも失ってしまうありさま。私の花博とは一体なんだろう。結局、終幕という九月三十日、三度目の正直を行くことにしたのである。
 その朝のニュースで、台風二十号の白浜上陸を伝えていた。雨風は窓硝子をたたき、窓からみえる公園の“にせアカシア”が、大揺れにゆれている。「物好きな」。家人のひんしゅくをかいながら、私は雨支度し着替えを用意して家を出た。台風接近で人出も少ないだろうと単純な思いつきと、ささやかでいい、何か心に残る思い出を求めたかった。
 会場は予想に反して大混雑である。雨風は相変わらず強い。鶴見大池のほとりを歩くことにしたが、のんびりと歩けるムードではない。足早に一回りして、ふと、目についたのが「国際展示・水の館」である。三十カ国余りの特産品展示と即売会場。ここは待たなくてよい。雨よけを兼ねて入ることにした。
 雑踏のなかで何げなく立ち止まったのが、寺院風なゲート。ネパール王国とある。奥のほうに手作り人形がぶら下がっている。身長五十センチくらい、黒糸でつくったもじゃもじゃの頭。顔には蛇模様のあるお面をかぶせているが、巻きスカートとラグラン袖のきものをきているから、女性のようだ。手足は雑な木彫り。なんとも奇妙なのが、四本も腕があることだ。
「これは、なんの人形ですか?」。私は店員らしいネパール青年に尋ねた。「これ、
カリの神様。やくよけになります」「カリって、どんな神様なの?」「わたくし、日本語わからないから、これ以上せつめいできません」。定価七千円が五千円に値下げされている。私は買うことにした。
 ネパールの神様をかたどる人形。それがなんの神様であれ、ちょっと奇妙で、素朴で、なによりも厄除けなのが気にいった。その代価としての五千円、決して高くない。こう納得ずみなのに、さもしい主婦の打算が頭をもたげてきた。ネパールでは、どのくらいで売られているのだろうか。
 この国の貨幣価値は知らない。ベトナムの青年の月給が、日本円で四、五千円と聞いたことがある。仮に、人形の値段をこの月給に対比させるなら、換算できないくらい安いものだろう。五千円とは、いかにも日本的な値段をつけたものだ。会場までの運賃、人件費をたしても、こうはなるまいと勝手な想像をしてみた。
 だが、そんなことより、はるばる中国とインドに挟まれた山岳地帯からやってきた国。「ようこそ」と拍手を送らねばなるまい。その表現としての5千円と思えばいいことだ。日はとっぷりと暮れてきた。台風騒ぎは立ち消えて、私はカリ人形にすっかり満足しながら帰り道をいそいだ。
 その夜、新聞記事をみてある偶然性に驚いた。山のエリアに建てられた国際庭園のなかの、ネパールの事情である。この国の代表的な寺院パゴダ(平和の塔)と付属施設サタル。そのサタルだけの建設費六百万円が、払えないで困っていた。花博終了後、国際庭園は全て残されるそうだが、負債のあるものは引き継げないと、大阪市などから撤去を迫られていた。が、ある篤志家の私費で救われ、パコダとサタルは揃って残ることになったとある。
 これくらいのことで、この国が貧しいとは思いたくない。それどころか、大変な仏教建築の提供を知って、もしかしてと、私のカリ人形への興味を一層かりたてられた。やがて、このカリこそ、ヒンドゥー教のご立派なメガミ様だと知ることになる。                                                       つづく

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花博(大阪国際花と緑の博覧会 1990年)が私に残したもの(2)

 ネパール展示場で買ったカリ人形だが、ほんとうは発音違いで、カーリーだとわかるまでに、ちょっとしたハプニングがあった。
 翌十月一日、私は花博の外事課に電話して、カリについて知りたいのだがと、事情を話してみた。ところがその時、私は思い違いをして、ネパールと言わずにパキスタン展示場で買ったと言ってしまったのである。それじゃあ、大変な親日家のパキスタン人が、此花区に住んでいる。親切に答えてくれると思うから聞いてみなさいということになった。
 その人の名はミスター アシュラフ。一面識もない私の唐突な電話に、はっきりした日本語で答えてくれた。「四本の腕があるなら、ヒンドゥー教のカーリーに間違いない。ぼくの国は回教徒が多いがね」。ここで初めて、お国の違いの人に尋ねるという全くもって失礼な、私のミスに気づいた次第である。それなのに彼は、カーリーに詳しい友人がいるから聞いてあげようとまで言われたが、丁寧にお断りした。ヒンドゥー教の神と分かっただけで十分だった。ただ、彼の日本語は流暢だ。ついつい、あなたの国のこと何でもと、お願いしたら気持ちよく応じてくれたのである。
 一九四七年八月十四日、インドと分離してパキスタン誕生。米、綿花がタクサンとれる。車、テレビ、ビデオといったものを日本から輸入、コールテンを輸出している……等々、書ききれない。既婚女性の社会進出については、結婚すると夫は妻を働かせないと、キッパリと言い切られた。だって、子供の面倒はダレがみるのですか。第一、お客さまがきたらダレが紅茶をだすのですか。砂漠の近い南アジア地方の家庭でも、私たちと相通じるものがあり、主婦の原点をつかれる思いであった。
 さて、アシュラフさんのお陰で私は、今まで知らなかったインド神話の世界をかいま見ることになった。その中で、カーリーはヒンドゥー教の三主神の一人、シヴァのお妃と分かったのである。主神のもう一人ヴィシュヌは、大洪水のとき、魚となって人間の始祖マヌの乗った船を髭(ひげ)につないで助けた。こんな動物崇拝と世界を救った化身の話が、ずらりと十種も並んでいた。
 シヴァは、破壊と万病治癒の神とある。なんと極端で矛盾したことだろう、つぶして治すとは。と思ったら、インドの季節風の恐ろしさと、その過ぎたあとの快い蘇生のおもいを象徴するのだという。言うなれば「飴と鞭」なのだろうか。厳しく人間をこらしめる一方で限りない愛情をそそぐ。シヴァ神は、敬謙な人々の憧れであり、生への偶像化であるに違いない。カーリーは、もともと温和でやさしい女神であった。が、シヴァと結婚後は、恐ろしい顔形で残酷な神として、夫同様の信仰をうけてきたとある。驚くべきはそのルーツが古いこと。前二千五百年ころのインダス文明で、シヴァに似た神像や夫婦仲よく並んだ彫刻が発掘されている。インド人の約八割はヒンドゥー教徒というから、地続きのネパールも含めて、数千年も前からヴィシュヌ、シヴァ共々、カーリーはこの地に息づいているわけである。
 ここで、以前聞いた原始仏教の話を思い出してみよう。お釈迦さまは二十九歳で身分、妻子を捨てて出家。三十五歳のとき、菩提樹の下でブッダ(覚者)のなり得ているが、このブッダの特色は性否定にある。女は信頼できない、不浄で汚らわしいとした。現代ならさしずめ、女性蔑視も甚だしいと言いたいところ。ブッダがその生誕地インドに広まらなかった理由が、これにあるといわれる。前五百年ころのブッダにくらべて、前二千五百年のヒンドゥー教のお妃樹立は、恐ろしくもはるかに進歩的。ウーマンパワーの元祖であるような気がして、親しみがもてるのである。
 素朴なカリ人形は、我が家の居間にずっとぶらさがっている。これからネパール、パキスタンに熱い視線を向けることになりそうだ。

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南京虫の独白

 おいらは南京虫である。
 おいらの生業は、人間さまと共存しその生き血を頂戴することだ。あの暗黒街に巣くう悪玉に似ている。でもって人間さまは、おいらのことを蛇蝎(だかつ)の如く嫌うが、おいらだって生きる権利ってヤツがある。
 平凡社の世界百科事典にも「半翅(はんし)目トコジラミ科に属し、体長五ミリ外、褐色、細長い円盤状で……」とあるように、おいらはシラミの一味でれっきとした昆虫さ。
 遠い親戚に、アメンボ、セミなど純粋な奴もいる。たかが五ミリそこそこの小物に、そう目くじら立てることはないと思うがね……。

 
ところで、おいらが黄金時代はなんてたって、あの太平洋戦争を境とする戦前から戦中のころだろう。
 で、ここに昭和十五年ごろ再現し、ふりかえって見よう。体長五ミリそこそこのおいらをめぐって、人間さまは悲喜交交(ひきこもごも)。げに滑稽な略奪合戦を繰り広げていたんだから……。
 舞台は大阪港区。とある路地裏の四軒長屋に向かって左端の家である。今様でいえば三Kの広さに、なんと驚くなかれ「家族」という名の人間さまが、十人も住んでいた。
 二階にある一つの部屋は三人の野郎ども(息子)が占領し、残る一方には「鬼も十八番茶も出花」の娘を頭とした、三人の娘たちがわいわいがやがやと起居している。
 階下の台所兼居間は、(兼)寝室でもある。両親に『南京虫の独白』の作者である女の子(四女)とその弟(四男)が寝ていた。こんなニンマリするような構図だからこそ、おいらが仕事がやりやすかったという訳さ。
 さて頃は八月。一年中の書き入れどきである。早朝のしじまを破って、トン、トン、トン、と階段をかけ降りてきたのは、一番上の娘。「また、南京虫に噛まれた!すごい痒い」と、母親に訴えた。と、つづいて「うちもや、こんなホロセが……」と、二番目三番目も降りてきた。泣きべそをかいている。娘たちは殊更においらを嫌った。
 それもその筈、同じ標的でも野郎どもより娘たちの内股や臀部(でんぶ)を狙ったほうが、快感にきまってら。だからこそ、娘たちは痴漢にでも合ったように騒ぐのさ。
 さっそく娘たちの母親は、恨み骨髄に徹するおいらと対決する次第と相成る。母親は部屋の真ん中に、おもむろに新聞紙を広げた。
 実はおいらを退治する仕掛けが、昨晩のうちにしてあった。布団が敷かれる。その上に、おいらが同業者である蚊よけの「蚊帳」をつり、さらに部屋の四方に木片が並べられる。
 縦・横四センチ、長さ五十センチぐらいの直方体の木片には、多数の穴があけてある。隙間や暗がりに潜みやすいという、おいらの習性を逆手にとったものだ。
 昼間、畳や柱の割れ目に住むおいらが、深夜になってやおら這い出し人間さまを襲う行き帰りを、生け捕ろうという魂胆さ。お笑いなのは、こんな木片が荒物店で堂々と売られていたことさ。
 コンコン、コンコン、と母親は、仕掛けておいた木片どうしを新聞紙の上で叩く。穴から頓馬なおいらの仲間が飛び出してくる。人血を吸ったのは、「ぼくじゃない、あいつだ」「いや、違うちがう」と、逃げまわるあのサマはちとみっともないがね。母親と女の子は容赦なく、プッチン、プッチンと親指の爪で押し殺していく。
 お気の毒だがこんな原始的なやり方では、おいらは挫けない。あまつさえ港区でも名うての低湿地帯ときている。ポットン便所や吸い込みカイショの不潔さ加減は、おいらの卵のこの上ない壌土であった。おいら仲間は嫌が応でもふえていく。
 とはいうものの、おいらにも強敵があらわれた。「リンデン」とかいう水色がかった粉薬や、戦後に進駐軍がもたらした「DDT」なるものがそれだ。さすがのおいらも降参だった。こんなモノを吸い込んだ日にゃー、人血を吸う力も消えうせて、おいらの体はペッチャンコ。生ける屍になってしまう。
 だが、いつの世も幸運はつきものさ。「リンデン」なる粉薬は値が高い。貧しい四軒長屋のくだんの家は、もっぱら木片が主力。母親と女の子は、旧態依然たる「コンコン、プッチン」をやらかしていた。おいらは自由奔放にふるまった。

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住友と銅精錬所

 最近、大阪は島之内にある、江戸期最大の住友長堀銅吹所跡をみてきた。これは、寛永年間から明治九年まで操業したというから、まさに、江戸の真っ只中を稼動していたことになる。興味をひかれたのは、遺跡そのものよりも、大阪市中、それも東横堀川と道頓堀川に囲まれた一等地に、銅精錬所がどうして出来たのか。また、二百四十年近くも、よく続いたものだなあと、いう思いである。
 それというのは、ここで私の第二の故郷、新居浜市の事情を引き合いに出したい。新居浜は、住友系の企業が軒を並べる、愛媛県東部  随一の工業都市。なかでも、別子は規模の大きい銅山として知られてきた。
 地元での活況ぶりは大変なものだった。昭和二十五、六年頃、高校生だった私は、よく目を見張ったものである。朝の出勤時間帯になると、汽車は人で鈴なりだし、県道は自転車のラッシュアワーとなる。ともすれば、車のほうが遠慮ぎみに走っていたりする。こうして、周辺の町や山奥の村々から住友に通っていく、あのパワーにあふれた光景。この人たちは「住友さん」と呼ばれ、信望が厚く、商人からは文句なしにツケがきいた。
 さて、この新居浜市の惣(そう)開(びらき)という町に、明治十六年、精錬所が作られている。別子の山で掘られた原石は、トロッコにひかれておりてきて、街中にある惣開で精錬される。ベルトコンベア式省エネ作業態勢ではある。幕府が倒れて大坂の銅吹所が閉鎖され、別子銅山の近くへ移転し操業再開したわけである。
 惣開町やその周辺には、もちろん、「住友さん」が多かった。だが、その設置に反対するべくもなかったのだろう。やがて、精錬につきものの鉱毒水や亜硫酸ガスの猛毒に悩まされるようになり、騒ぎだした。住友のおひざ元で、住友さんがのろしを上げるという、当時としてはかなり画期的なことがおきたわけで、いわゆる公害運動の先駆といわれている。結局、十年余で惣開を閉鎖、四阪島(しさかじま)に移転している。
四阪島は、新居浜から北西十八キロの瀬戸内海に浮かぶ離島だ。住友は小さな島四つを丸ごと買収。岩山を削って工場と従業員住宅を建て、海底ケーブルで電力を、水道船で水をはこぶなどして操業をはじめた。しかし、潮風にのって煙害はますますひどくなり、東予四郡にひろがった。住友は毎年賠償金を払いつづけ、昭和のはじめに、新しい精錬法を取り入れて煙害はなくなっている。
 ここで大阪の銅吹所の話に戻ろう。徳川は大坂夏の陣で秀吉方を完封したのち、急速に町の整備にかかり、碁盤の目のように堀川を開削している。堀川の近くに精錬所を集め、質のいい胴を作らせた。舟運によって原石を運びこみ、精錬されたものを長崎へ運びだす。ついで、長崎出島のオランダ商館から、ひそかにヨーロッパへ輸出するといった具合に、大坂は立地条件が整っていたのだ。当時、銅は幕府の大きな財源であったという。
 ところで江戸初期の大坂は、葦の生える低湿地帯。堀川ができるにつれ、真っ先に生まれたのが船場や島之内の町である。ここに精錬所が、十数軒も占拠していたのだから、当時にしてできたこと。大阪が水の都、煙の都と呼ばれた所以が、この辺にもありそうだ。
 また、精錬所の職人は、かなりの高給であったという。興味深いことに、この職人たちが、米価高騰を理由に賃金の三割値上げを要求して、ストライキをしている。「仕事を滞らせるとはけしからん」。幕府直轄の管理所、銅座から一喝され、要求は通らなかったという。こうして二百四十年も精錬をつづけているのだから、幕府の統制の厳しさと、お上(かみ)には絶対服従という大坂町民の柔順さ、悲哀さが伺いしれるのである。
 時が流れて、別子銅山は昭和四十八年三月閉山、四阪島も同五十一年十二月に精錬をやめている。江戸期からの大役を果たし、静かな自然に返った別子には、今、故郷の人々が紅葉をもとめてつめかけ、ハイカーを慰めていると聞く。

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次元のひくーい話

 十五年前に買ったわが家のテレビは、甚だしく老朽化していた。そのひどさ加減は、この際、省かせてもらおう。今冬、夫が入院したが四月に退院という頃、思いきって買い替えることにした。快気祝いのつもりである。電気にからきし(・・・・)弱い私が、日本橋の電気街で悪戦苦闘、やっとモノにしてきたのである。
 約束の日。日立カラーテレビ、29インチ、衛星放送チューナー内蔵っていう代物が、運ばれてきた。業者は梱包を解く。組み立てる。据えつける。その手際の早いこと。
 さて、帰ろうという時に業者が言った。「これ、リモコンです。詳しくは、この取扱説明書をみてお使いください」。(ちょっとお待ちください。私はこのの本が苦手。くわしすぎて分かりにくいんです)。手っ取り早く教えてもらった。チャンネル②~⑫は今まで通り。③はサンテレビ、⑤はテレビ大阪、⑦は京都テレビ。音量と電源ボタン。これだけでもう充分。取扱説明書はそのとき、ポーンと棚の上に放りあげた。
 夫が無事、退院してきた。新品テレビはお気に入ったようで、朝っぱらから時代劇をみている。リモコンも好きなように繰りだした。私は三十年このかた、NHK朝の連続テレビ小説のファンである。たった十五分間の放映だが六ヵ月もつづく人気番組だ。
 たまたま四月から『凛凛(りんりん)と』が始まっていた。これは、早稲田の名物教授、川原田博士の自伝的ドラマ。テレビの研究開発者である。
 明治の終わり、魚津から上京する苦労少年、幸吉(こうきち)と、長州藩士の娘、郁(いく)との出会い。貧乏にもめげず、前向きに生きる幸吉を慕う郁。さまざまな試練をこえて、ふたりの愛が実っていくという筋書き。八月初旬、ふたりの愛が結ばれようとするヤマバにきたときだった。
 普通、演技者のセリフは耳できく。情景は、目で見ることができる。ところが、この情景に艶消しなカイセツが入るのだ。例えば、こうだ。『郁が物憂げに、部屋の窓にもたれている』『幸吉やってくる』『幸吉と郁、抱きあう……』見ていてハラハラした。
 午後七時のニュースでも夫が騒ぎだした。おなじみキャスターの口から英語が流れてくる。どうしたことだ。私はとっさにこう思った。ドラマは福祉月間?英語は花博で来日した外人のためだ。が、毎日見ていて辛抱にも限界がきた。
 ある午後七時過ぎ、ニュースをかけたまま私は受話器をにぎった。 「もしもしNHKさん、一体、これはどうなってんですか」「失礼ですが、最近お買いになったテレビでは?」。落ちついた管理職タイプの声。(テレビをいつ買おうとこちらの勝手でしょう)返事をしなかった。「じゃ、リモコンが手近にございますか」。こちらの意図がまるで分かっていない。あるにはあるが、腹立たしさはつのるばかり。「リモコンをお取り下さいませんか」。あまり低姿勢なので、しぶしぶ取った。「音声切替ボタンがありませんか」。(そんなややこしいボタンなど知りません。でも……)よく見たら下段にちゃーんとある。「それを押して下さい」。押してみた。画面の右肩に「主/副」の文字が出る。(日本語と英語が同時に聞こえた)。もう一度押して……。(向こうのペースにはまり込んだようだ)「主」の文字が出て、ニュースは日本語に変わった。三度目を今度は自分勝手に押した。「副」の文字が出て、元通りの英語だけ。この様子は、すべてあちらにはお見通しのよう。「副」は、目の不自由な人のために、ドラマの解説も入ると言われた。あくまでも慇懃(いんぎん)な係員の姿勢、私は顔がほてり、冷や汗がながれた。
 テレビは音声多重放送という最新型で、私には『ネコに小判』だった。いつの間にかリモコンが「副」に変えたままになっていたわけだ。矢面にたたない夫は、初めに聞かなった私が悪いのだと、平然とうそぶいた。
 あのときの恥辱が、まだ冷めないでいるというのに、私は、今、ソニー電子辞典の虜になっている。私ごときオバン向き、超低次元苦情相談窓口というのを、メーカーが新設してくれないかと、まじめに思っている。

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新大阪発上りひかり号

 じりじりと肌に汗ばみを感じる頃を、薄暑というのだそうだが、そんな六月初旬の土曜日の昼さがり。駅構内は旅支度の人々でごったがえしている。花博帰りや単身赴任者の自宅へ急ぐ者も多いのだろう。ホームに上がると、自由席の乗客が長蛇の列をなしている。私は久しぶりにリッチな気分で行列のあとにつづいた。もろもろの身辺の整理が一息ついたので、ひとりのんびりと、東京近郊の散策でも楽しもうとやってきている。
 車内は百パーセントの混み具合。私は三人掛の通路側にやっとの 思いで座る。発車のベルが鳴る。適度の冷房、振動の少なさに、さすがは特急列車だとつくづく思ったりする。京都を過ぎるころ、右隣の老人ふたりが、カップ酒と折詰めをひろげてつつきはじめる。左隣は会社員風の若者で、こちらも缶ビールに弁当を食べながら、何やらいかがわしいカラー写真入りの雑誌を眺めている。どうやら前後の人々も、口に食べ物を運んでいる様子だ。早めの昼食を済まして乗った私には無関係である。目をつぶり、ふと、昔を思いだす。
 三十八年前にもなる。田舎の高校を卒業した私が、両親のもとから一人で大阪にくる、貧しい旅立ちのひとこま。夜行列車の鈍行である。持ち物はバッグひとつ。新調したスーツを着込み、所持金は三千円也。上着の裏に母が縫い付けてくれる。これからの唯一の自活資金であった。列車は混雑をきわめ、入り口に近い通路に新聞をひろげて座るほかなかった。どの辺までこの状態が続いたのか記憶にない。
 入り口のほうから、便所の臭気が余寒の夜気に乗って私に迫ってくる。客は引っ切りなしに便所にゆききする。そのたびに私は立ち上がり、さもしく胸を押さえてお金を確かめる。卑猥な話し声、食べ物をほうばる者、泣く子供、わめく酔っ払い。薄暗い電灯のもとで犇(うご)めく客たちのありようには、翌朝までかかる大阪への、貧しい三等列車の悲哀と気楽さが漂っていた。
 目をあけると、名古屋に滑りこんでいた。しばらくたつと、うしろに陣取る男性グループのほろ酔い機嫌の会話の声がエスカレートしてくる。隣の老人も前に座る連れと椅子越しに話しだす。若者は携帯ラジオを鳴らす。わずか三時間だというのに、どうして、こんなに飲み食いし騒ぐのだろう。これではあの鈍行なみではないか。外人夫婦の姿もみえる。私だけでも上品に見栄をはっていよう。
 鰻弁当はいかがですか。販売員のラッシュになる。こんなところで鰻弁当もあるまい。千日前の“いづもや”の鰻重ならいざ知らず。冷コーヒーにクロワッサン……。ちょっと洒落てるぞ。ジュースにウーロン茶は……。「ウーロン茶ください」と前の客が言う。「二百円頂きます」。なんと! 高過ぎる。ソフトクリームはいかが……。隣の老人グループがおいしそうに食べはじめる。私の血糖値が、首を横にふり睨みをきかせてくる。
 静岡あたりから、徐々に私の平衡感覚がくずれかける。頼みの富士山もその姿を見せていない。ちぎれ綿を浮かせたような雲の、晴れあがった青空の下で陣取る遠景が、わずかな清涼剤だ。トンネルにさしかかるたびに、私の鼓膜はキーンとつっぱり耳はふさがる。尾骶骨(びていこつ)がやたらに痛く、両太股はけだるい。後頭部はジィジィと鳴りだす。もう我慢の限界だ。その時耳に飛びこんだのは、再びソフトクリームはいかがの声だ。前後の見境なく通り過ぎた販売員を、私は大きな声で呼びとめた。
 ソフトクリームをむしゃぶるように食べた。つーんと鼻腔をつきあげるその心地よさ、爽やかに広がる口腔の涼感がたまらない。やっと神経が落ち着いたと思ったときだ。車内放送の声がした。「東京―、終着駅、東京です」。
 せっかく超特急に乗りながら、変なところで見栄を張ったばかりに、その中身は惨憺(さんたん)たるもの。これは、取りもなおさず旅下手で、生来の貧乏性がなせるわざというほかない。

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保険嫌い

 病気になんかなるもんか。入院やなんてとんでもない。俺の亡きあと? そんなの知ったこっちゃない。まことに鼻っ端が強く、無邪気な心意気だが、これが、若い頃からの夫の健康哲学? である。こんな煩悩を逆なでするように、生命保険というものがあるようだ。えてして、夫のようなものを誘惑したがる。追っかけられたら逃げたくなる心理は、恋の道に似ている。夫は生理的に保険を嫌った。恐らく、いやな相手以上にではなかろうか。
 三十余年前、長女が生まれた。どこから聞きだすのか、保険会社や郵便局が勧誘にくる。産後まもない私の脳裏に、やみくもに路頭に迷う母娘の絵図が去来した。夫の機嫌のいいときを見計らって頼んだが、頑として首を立てに振らない。次女が生まれた時も同じだった。
 石油ショックの頃だった。夫が曇った顔つきで帰宅して、「Iくんが亡くなった」とぽつりともらした。夫の仕事は、会社の機械整備。この整備課に一年ほど前、Iくんが転属してきた。その頃の写真には、純朴そうな三十歳代、小柄で人なつっこい大きな目をした青年像で映っている。この青年、整備では不向きであることが分かってきた。修理はおろか、機械部品一つ作れない。教えても飲み込みがわるいと、夫がこぼしていた。
 ところが人間というのは、天性というか、処世術をもっているものだ。青年は、ある日から人より一時間も早く出社してくるようになった。几帳面な清掃に整理整頓。夏場の冷えた麦茶作り。誰もが敬遠する油だらけのゴミを、ドラム缶で焼却する。雑用を尻軽に動く。たちまち、みんなの人気者になった。
 ある冷え込みのきつい日。青年がいつものように、ドラム缶にゴミをくべていた。何げなく、自分の背を暖めようとした途端、炎が油汚れの作業服に燃えうつった。ときならぬ悲鳴でみんなが駆けつけたときは、青年は火達磨。この惨たらしさ。その夜、夫は身震いし涙さえ見せて語っていた。ICUでの手当ての日々が続いた。しかし、青年はついに帰ってこなかったというのだ。
 朋友を亡くし、会社や基準局から責任を問われ、夫は疲労困憊(こんぱい)した。その中でも、遺された奥さんと二人の子供さんを慰めようと、躍起となった。
 四十九日の法要が終わった頃、こんな噂が伝わってきた。奥さんが四LDKのマンションを買い、今後の生活も事欠かない。なんでも多額の保険金が入ったそうだ。多くのやじ馬から、やっかみとも羨望ともつかない呻きがもれた。「あいつ、死んで花実を咲かせよった」。青年を冒涜(ぼうとく)する言いかたをした。当時のマンションも高嶺の花。買ってもローンで悪戦苦闘していた。「自分は一体、家族に何が遺せるのだ。」悲しい決心で、あの人もこの人も団体保険に加入したのは、この時である。わが夫も御多分に漏れない。「保険に入ったぞ」。まるで保険金が入ったように、私にえばってみせた。神様のお恵みでそれから定年までの十年余、夫は無事にすごせた。それっきり、保険は消滅したままだった。
 退職後二年目のこの春、夫が入院する破目になった。入院費は、情け容赦なくわが家計を直撃する。しかし、これからが私たちの正念場だと心に決めた。夫は退院してきた。私はほっとした。
 最近、郵便局が勧誘にやってきた。今度は私のために、今はやりの入院保障付きとやらを買っておきたい。夫に相談して、私は終身保険というのに入った。ところが一夜にして、どんでん返しがきた。夫はその極限を連想したのだ。真新しい私の位牌の前で「チン チン」と、鐘を鳴らす。台の上には札束が鎮座する。「ふざけるな!」。翌朝、夫は「即、解約だ」と言った。「馬鹿にしないで」と私は叫んだが、無駄な抵抗だった。
 満面笑みだった局員の顔が浮かんでくる。私と同年輩なのに、老いた母と、そうだ、中学生もいると言った。その夜、私は眠れなかった。

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濃霧の朝に

 そのとき私は、体に差すような冷気を感じ、無意識に掛け布団をひきよせて、目を覚ます。時計の針は七時を指すのに、あたりはいつになく暗い。よろけるように起き上がり、二重窓の障子をあけた私は、「あっ」と驚きの声をあげる。ガラス戸の外は、一寸先も見通せない濃霧である。
 いつもの泰然とした新淀川や対岸の家並みも、上手にある筈の長柄橋も、それらを映し出す日のひかりも、かき消されてすべて見境もなく灰色に霞む。天地を丸のみしたこの自然変異に、高層ビルの一室にたたずむ私は、ポツンと幻想の世界に迷い込んだようだ。
 窓の下をのぞいてみる。黒くぼやけて形するものがかすかに見える。冬枯れの樹木と、土手沿いに走る車の連なりのようだ。
 樹々は波にゆれる珊瑚を、車はその間をぬってヒラヒラ泳ぐ魚を想わせ、濃い霧は、神秘的な海底の深淵を醸し出している。
 ふと北の方を見上げる。霧のかなたから気配がする。八頭のトナカイに引かせた橇(そり)に乗った、サンタク・ローズが見えてくる。赤ずきんに赤い服をまとい、長靴を履き、おもちゃを詰めた袋を背負ってやってくる。
 符丁を合わせたように東のほうから、幼児がころがるように駆けてくる。
「オバアチャン」と呼んでいる男の子と女の子、私の珠玉の孫たちだ。
 あと一息で私の胸にとびこめるというのに、彼らは冷たく向きを変え、サンタのおじいさんに近寄っていく。クリスマスのプレゼントをねだる。寝ている間に煙突から入ってくる、おじいさんを先取りして……。
 サンタのおじいさん、お願いよ。
 ほっぺを真っ赤にして遊んだ孫たちに、あしたへの限りない夢を一杯いっぱいあげてね。いい子だったから、束ねた木の小枝は、ゆめゆめ上げないで。
 サンタ・クローズと孫の出会いの幻想は、私をふと我に返らせる。あしたの晩はクリスマス・イブ。濃霧のきょう、新幹線で孫たちが、東京から大阪へ里帰りしてくる。

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借金棒引き

 十一月の初旬、エッセー教室の先輩のみなさんに連れられて、奈良市の東北部に広がる「柳生の里」を散策した。柳生新陰流の柳生十兵衛など一族郎党は、徳川家康をはじめ約三百年の江戸幕府に、兵法師範役として仕えている。
 その柳生藩の名所、史跡が色濃く点在する里で、珍しいものに出合った。中央部の山脇というバス停から今川を渡り、ほどなく旧柳生街道を入ったところに、ほうそう地蔵というのがある。鎌倉時代に作られた、天然痘よけを祈願する高さ三メートルほどの石仏である。
 その石仏の右下に、黒ずんだ片仮名の文字が刻まれている。腰をかがめて目をこらしてみた。あたりを覆う大樹か風化のせいか、読み取りにくいが、これが「徳政一揆」の銘文という。
 調べてみると、現代語になおして「正長元年(一四二八)より先は神戸四ヶ郷(かんべしかごう)に負債あるべからず」とある。
 江戸時代から、さらに百七十五年前の正長元年、近江坂本の交通業者である馬借(ばしゃく)が、徳政(借金棒引き)を幕府に要求して立ち上がり、山城、大和の農民も加わって、「正長の土一揆(しょうちょうのつちいっき)」を起した。「徳政一揆」ともいわれる。
 租税や年貢を免除したり、債権債務の破棄を、徳政という。ひらたくいうと「貸した者は損、借りた者は借り得」ということである。
 神戸四ヶ郷というのは、柳生の大半である大柳生、坂原、小柳生、邑地(ほうじ)の四地区を指す。この地区は、大昔から春日神社に属し、神社に奉仕してきた神領域であるといわれる。正長元年より先は、この神領域での年貢をゆるくし、借金も棒引きするという意味らしい。
「正長の土一揆」でかかげた徳政の改正令が勝利だったのを祝って、この土地の誰かが、この石仏の右下に、このように落書きした。徳政一揆のたしかな証拠としては、全国的に唯一のもので、ほうそう地蔵とともに、重要文化財に指定されている。
 農民が集団で、酒屋、倉庫を襲って品物を奪い、借金棒引きを幕府に求めて、武装行動をとることは、正常な手段とはいえない。しかし、農民がいかに苦しく、貧しく、深刻であったかということだろう。また、足利義政などは自らの贅沢がたたり、財政立て直しのために、一代で十三回も徳政令を発して、人民を逆に苦しめた。呆れはてた将軍である。
 一揆の頻発した室町時代から、五百年以上たったいま、私は不遜なことに思いをめぐらせてみた。ここで徳政令がでたらどうなるか。
 ふと、フランス文学のモンテ・クリスト伯(巌窟王)を思い出す。無実の罪で牢獄生活を送り、のち復讐のために、主人公の青年を大金持ちの伯爵に仕立てあげた。証券取引所を痛快にあやつって、欲しいがままに大金を使わせた、作者、アレクサンドル・デュマなら、壮絶な想像ができるだろう。
 平凡な主婦の私は、せいぜいこんなところか。銀行から借金して買った地上げ屋は、返さなくてもいいから大儲け。すべての貸し金が回収不能になると、銀行は大慌てする。不安感を抱いた預金者が殺到して、引き出しにかかる。たちどころに銀行はパンクする。
 会社、商店が仕入れる原材料、商品の買掛金は借り得。しかし、得意先に売った売掛金は貸し損。競馬、マージャンといったギャンブル代を、給料の前借りした者は、奥さんにばれずに帳消しになる。賃貸ビルや住宅の悪質な家賃滞納者は、ゴテ得をする…等々。
 卑近なところで、我が家のローンの残り十五年分、テレビの月賦、酒屋の大きなツケが助かる。店の回転資金の一部に貸した、知人への貸し金はボツ……等々。世の中は大混乱し、昔の物々交換の時代にかえらねばなるまい。
 農民たちの血みどろな闘いの中で、守られてきた田畑は、今も生き続けている。稲の刈り入れがすみ、切り株の残った田圃、真新しい造りの農家、こんな柳生の里が印象深い。

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ゴキブリ退治

“ダニは高い所がお好き”最近、こんな有り難くない高層住宅の調査結果が、新聞にでていたが、コキブリは関係ないのだろうか。それとも、主婦たる私のだらしなさか。我が家は高層住宅に住んで十八年余になるが、数年前からゴキブリが出没するようになった。
 マンションは気密性が高く、風がきつく窓を開けにくいので、自然換気が少ない。おまけに冬場は暖房する。高温多湿の中でゴキブリは、図太く冬眠し、台所のゴミをエサに春から夏に繁殖する。ゴキブリ一匹は十匹に匹敵するといわれる。そこで我が家は、春先と初夏に一回ずつ、バルサンを焚いて一網打尽を狙っている。
 十月中旬の夕方のことである。いつも聞き流している消防車のサイレンが、だんだん小さくなるどころか、大きく強く迫ってきた。とっさに窓下を覗くと、わが住むマンションを五台もの消防車が包囲し、隊員たちが機敏に白いホースを延ばし始めている。
「F棟が火事や」。廊下に叫ぶ人の声。私の心臓は早鐘をうつ。どうしょう……。なんべんも下を覗く。隊員たちの動き、白いホース点滅する赤い灯が入り乱れて、一層慌ただしい。どこが火元か、うちの角度からは見えない。向かいの公園には、あちこちからやじ馬が駆けつけ、こちらを見あげている。
 廊下では、近所の人々が右往左往している。確かな情報は誰も分からない。時間外で管理室からの放送もない。人々は非常階段へと急ぎはじめるが、私はまた、うちにとって返す。部屋を念入りに見渡す。電気、ガス、テレビすべてOK。さあ、急ごう。
 だが、マンション火災は水害もつきもの。とっさに、夫自慢の二台のカメラが脳裏をかすめる。二十七年製ニコンSとアイレスフレックス。〆て十五万円したという代物。これだけは持ち出そう。
 待てよ。私にも大事なものがあった。ワープロだ。難しい操作はなにもできない。仮名と漢字を拾うのがやっとだが、今や、これの熱病にかかっている。これがなかったら…。
 そうだ。そんなものはどうだっていい。一刻を争うのだ。命こそ、あっての物だねと、再び廊下にとびだした。誰も見あたらない。無気味な予感がする。非常階段へと走りだした。急にうしろで騒々しい人声がする。どうしたのだろうと、とんぼがえりをうつ。エレベーターから近所の面々が降りていた。
「バルサンの煙だったそうよ」「人騒がせな」
 みんなが口々にぼやいている。忿懣(ふんまん)やるかたないのか、廊下からなかなか立ち去らない。ある家がバルサンを焚いたまま留守にした。隙間から漏れる煙に、すわ火事だと隣人が119番した。はしご車が件の家のベランダから入り、原因がつかめたというのだ。
 本物の火事でなくてよかったと、私はほっとしながらうちに戻り、何回目かの窓下を覗いた。さっきの騒動はどこへやら。消防車は影も形もない。とっぷり暮れた道路に街灯が光るだけ。やれやれと、私は部屋にへたりこんだ。ふと見ると、押し入れから二台のカメラが引きずりだされ、大風呂敷に包まれたワープロが、部屋の真ん中にあった。言いようのない恥ずかしさで顔が赤らむ。家族が帰らない間にと、私は慌てて元通りにした。
 あくる朝である。一階の掲示板にデカデカと、次のような張り紙がでていた。

お 知 ら せ
バルサン等使用される場合は、必ず消防署に届け出ると共に、玄関扉、南北の窓硝子面にその旨掲示して下さい。尚、念のため管理事務所にもご連絡ください。
大阪市火災予防条例
(火災とまぎらわしい煙等を発するおそれのある行為等の届出)第五十八条一……。

 ゴキブリ退治などとは、こっそり実行して涼しい顔をしていたいもの。私は後頭部がずきんと痛んで、掲示板から離れられなかった。

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墓地

 外出から帰ってきた私が、たまたま家にいた夫に、どこからも電話が懸かってこなかった? と聞いたら、懸かってきたと答えた。それも一件だけ、大津霊園とやらが墓地の大売り出しで、要らないかというそうだ。
「なにー、墓地! 要らん。ガチャン」と、受話器をきったという。いまいましげな様子に、無骨な夫にかけたセールス嬢こそ災難である。ともあれ、夫のこの立腹は、墓地に対するかなり感情的なものだが、夫婦婦随の私にも分からないこともない。
 工場で働く村田さんと夫とは、四十年来の技術者仲間である。一口に四十年といっても山あり谷ありを助けあってきた仲だ。正月には一年交替で自宅に宴をもちあい、仕事上の鬱憤をはらし、新年への鋭気を養ってきた。
 その村田さんが、一年ほど前から体調が悪いともらしていたが、この5月末、思いきって検査入院した。六月二十六日、胃カメラ検査の最中だった。村田さんは急に血圧低下、意識不明になり、急逝されてしまうという、不幸な結果になった。ご家族は悲嘆にくれ、工場の仲間たちは唖然としてしまった。
 生前の話では、村田さんは町中にある寺院墓地を、大枚を払って買っていた。次男坊である自分一家のためにである。その上、その寺の落慶法要で応分のお供えをしたら、戒名を頂いたそうだ。墓地を買い、戒名までつけてもらって、逝き急いだ村田さんを思って、夫は口惜し涙にくれた。村田さんは六十歳。まだまだこれからなのに。心からご冥福を祈るばかりだ。
 古くは聖徳太子が、生前に自分の墓を立て、墓石に朱色で法名を刻んだといわれる。これを逆修(ぎゃくしゅ)と呼ぶ。日本書紀にこう記されている。

望むらくは死(みま)かりて後、人を労(いた)わらしむること勿(な)けむ

 聖徳太子のみならず、時代の権力者たちは、生存中にその偉大さを誇示した。秦の始皇帝が驪山(りさん)の麓に巨大な自身の陵を、仁徳天皇は堺市に仁徳陵などを築きあげている。
 庶民が「○○家の墓」をもつようになったのは、江戸末期ごろからという。核家族化した現在、墓地の需要は多くなり、供給者が増えるのも当然だが、それだけみんなの生活が豊かになったとも言えよう。
 村田さんが生前に墓地を買ったことは、ごく自然な仏教的信仰のあらわれだ。子供に負担をかけまい。ひいては、安らかな老後をと願ったに違いない。その意味では同調したい。しかし、墓地とてお安くない。余裕のない者は、そこまで、とてもじゃないが回らない。信仰心が薄いと、なおさら無理である。
 こんなグループの話がある。なんらかの事情で独身をとおしている女性たちが、共同で京都の嵯峨野にお墓を立てた。彼女らには弔う者がいない。みんなでお参りして、惜しみあいましょうというのが趣旨だそうだ。十年たったいま、会員の輪も広がっている。ちなみに、団体割引で二万円、それ以上は自由意志の納骨代で済む。ユニークな実践だ。
 天王寺の一心寺では、奉納された人骨で、十年に一体の仏像を作るという。縁日に、参詣する老若男女のひきもきらないさまは、いかにも、みんなで守ってもらえる都会的なありようかも知れない。
 ある調査によると、先祖や親の墓は別として、自分自身の墓は、どちらでもよい、なくてもよい、とする者が四割いるという。どちらかというと、私たち夫婦はこの部類に入るのかもしれない。うちは娘二人。婚家先の先祖をお守りする上に、実家の墓の管理まで押しつけるのは、酷な気がしてならない。年のせいだろうか。このたびの村田さんのご不幸で、やみくもに私たちのゆくえが気になってきた。
 これを、転勤族に嫁いでいる長女に、謎かけて話してみたら、頼もしい言葉が返ってきた。「両親のことは、わたくしがちゃーんとします。心配は一切無用」。慰められているような、励まされているような、それでいて、変ーな気持ちに私はなった。

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張り子の虎じゃない  (闘病日記より)

 きのうは、夫が泊まってくれる晩なのに、七時のはずが、九時がすぎても来てくれない。時計のカチカチが気になって、個室でひとりじりじり待つ身は、やり切れない。
 やがて、ペタッペタッと夫独特のつっかけの足音が、静まりかえった廊下から響いてくる。私はあわてて、うちわで、顔を隠して、むくれてみる。「やあ、ごめん。色々あってね」と、夫の声がしたときは、布団をかぶって狸寝入りをきめこんでいる。でもやっぱり心が弾んで、パッと笑顔を覗かせる。
 自動販売機の
かちわれで、氷枕を高くしてくれる。気持ちいいやろと私のおでこをポンと叩く。冷やしたタオルを、マウンドのピッチャー然と、おでこめがけてストライクと投げつける。なじる私に、文句を言うなと、ポン。汗だくの体を拭いてよに、注文ばかりつけやがってと、ポン。なんでもかんでも、鬱憤(うっぷん)はらすように、私のおでこをポンと叩く。
 きょうは、夫の番じゃないのに、会社がひけて直行でやってくる。腹がへってぶっ倒れそうだと言いながら。途中、阪急で買った栗、かき氷、クッキー。朝、家から持ってでた、かゆみ止めのムヒに、私のお気に入りのタオルケットを抱えこみ、汗をびっしょりかいている。どれもこれも欲しいものばかりやろといつものように、ポンと叩く。
 好きな栗をたらふく食べて、はよう栗のように強く元気になれよと、おでこをポン。私を泣かせるこんたんですか。にわかな優しさは、反射的な涙になって、しょっぱい涙は、口腔に戻っていく。本当は、ドジで、じゃじゃ馬がと、手間のかかる厄介者めがと思っているのでしょう。仏心で、しょうこと無しに、寝たきりなのを不憫(ふびん)がって……と、追打ちかけて、憎まれ口ざんまい。両の足で歩けるならば、どこにでも消えてなくなるわと、からいばりの私に、夫は一層強く、好きなようにしやがれと、ポン。私は張り子の虎じゃない。

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ある日の淀川

   朝明けにひき船が、ポッポッポッ・・・とエンジン音を響かせて通っていく。砕石を積み込んだ運搬船を二隻従えて、胸を張って軽々と上流をいく。河のほとりの人間どもに、早くエンジンをかけさないといわんばかりに。
  午後、ひき船が帰っていく。あの運搬船をつれ、仕事を終えた満足感にみちあふれている。船尾に男が二、三人立っている。はしけ乗りだった父を思って、大きく何度も手をふってみた。
  真っ昼間だというのに、淀川中流も対岸のビル群も、遠くにたたずむ北摂の山々も、みるみるうちに灰色に変わる。わずかに、左の六甲山のふもとあたりに、にぶい日のひかりを漂わせて、やがて一帯は濃い霧に包まれてしまう。ガラガラ ゴオー、雷が山の向こうでうなった途端、糸のような雨が降り、激しさを増し、スコールに変わる。無数の太い雨は垂直に、川面めがけて、すごい勢いでぶつかっていく。にわかのスコール到来で、樹々にさえずった小鳥たちは、じっとなりをひそめている。
  夕暮れの川面のたたずまいは、うそのように静寂な白光色をしている。河川敷に生える深緑の葦、雲ひとつなく広がる薄青の空、西の空を色どる茜色が、白光色の川面に映え染めて、歓喜のパノラマをつくりだしている。
  夜、対岸のビルというビルに、赤、黄、青の色したネオンが輝き、暗い川面をうつしだしている。地球の向こう側に、お日さまを送り込んでから、河は昼間の光を失っている。無気味な漂いの中で、ネオンはわがもの顔にひかり、不夜城のように輝いている。大河のほとりに住む者どもに“百万ドルの夜景”だと、おおげさな、喜びを与えてくれるかのように……。

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